僕が中二の一学期に父が突然言い出した。
「今年の夏は三方五湖の久々子湖に浜茶屋をだすことになったぞ」
聞いた僕は「やったー!夏休みはずーっと海とかき氷だ!」
と飛び上がったのだった。
久々子湖という、みずうみは湖畔と海辺が接してる、福井県でも最高の海水浴場なのだ。もちろん7月20日の終業式のあとすぐに松原少年は海にムカッタ。
そこはほんとにすばらしい所だった。
浜には関西方面からと思われるビキニのおネイサン達、
海のちょっと向うには岩場の陰になにやら洞窟の様なものが見えている、
そしてかき氷、やきそば達~~~~
しかし浜茶屋を見渡してみると父ではないひとりの青年がいた。
しかもどう見ても怪しい、これが あの ヒッピーか? 
ちょっと怖いが好奇心もある。
彼は父が雇ったアルバイトだった。元グループサウンズでめちゃくちゃ気のいい優しい人で、すぐに打ち解けた。
夕暮れになり客もいなくなり、空に星がまたたきだしたころ
ヒッピーがおもむろにギターを取り出し海に向かって弾き始めたのだ。
ウッウウウウーかっこいい!!!松原少年 若大将以来の感動!!
そして少年とヒッピーの楽しい日々は続いた。
いっぱい泳ぎ、かき氷もおなかを壊すぐらい食べ、
洞窟に探検に行き溺れそうにもなった。
しかし何よりも少年はギターを習い始めたのだった。
しかしその日がやってきた。
8月31日。最後の日、今日で店を閉めるし明日から学校も始まる。
お別れの日が来たのだ。ヒッピーとはもう兄弟以上の仲になってしまっていたのに、、、、その時、父が言い出した「まさみ(ヒッピーの名前)行くとこないんやったらうちで(実家のスナックバー)働くか?」 ヤッター!!!!!
このことがきっかけでギターにのめりこんでいくのであった。
 その頃の僕の家は「スナック香」をやっていた。
ここで働くことになった元フーテンのマサミチャンは明るさと優しさで、
あっという間にお店の人気者になった。
彼は元GSだったそうだが、たぶんアル中になって辞めたんだと思う。
その頃もまだ手が時々震えていたが、音楽を心底愛してた。
開店前には、ジュークボックスのオーティスをかけて踊っていたし、
お客さんの伴奏をギターでしながら歌っていた。
ある日、彼はぼくためにギターを買ってきてくれた。
質屋かどこかで手に入れたものでボロかったがちゃんと鳴っていた。
その日からマサミチャンの特訓が始まった。
まずは構え方、指の置き方、解放弦のドレミ。そこからいきなり曲になった。
曲は「駅馬車」ぼくはメロディー先生はコード。
すぐに弾けた。
実はドレミは小学校の時に父に教えてもらったことがあったのだ。
でも先生は誤解した。すごいじゃないか! と、
それで次に習ったのがFコード。人差し指で1フレットを1弦から6弦まで 制覇して、中指、薬指、小指、すべて使う初心者にはチョウ難しい代物であった。
ゆびをフレットに置いてみたけれど、まったく音にならなかった。
悔しい チョークヤシい! いくらやっても ダメ、、ダメ、、ダメ、、、、、
ついに腹が立って割り箸を輪ゴムで人差し指にくくりつけた。
音がでたヤッタ、、、しかしこのままでは身動きとれん!こまった
人差し指の感覚を忘れないようにそっと割り箸をはずし、弾いてみた。
おおっ、ちょっとだがなんとなくコードに聞こえる?いけるかもしれん!
そんな感じで弾ける様になったのだった。
地獄のFが弾ける様になると、そこにはすばらしいことが待っていた。
Fコードというのはすごく便利なコードで1フレットずらすとF#、2フレットだとG、3フレットだとG#というように色々なコードになれるし、中指を離すと
Fマイナー、小指を離すとFセブンというコードに変化する。
これを組み合わせると、歌本に載ってるほとんどのコードが弾けてしまうのだ。
これにより、加速度的にギターの面白さを知ることになったのだった。
ギターを始めたのが中二だったが、その前の中一からブラスバンド部にはまっていた。クラブ見学の時に無理矢理、教室に連れ込まれて、
「とりあえず触ってみなよ!」と先輩達に言われてバリトンという楽器を渡された。マウスピースの吹き方を習うと、割とすぐに音が出て、ピストンの指使いを習うと、ドレミが吹けた。次にピカピカのアルトサックスを渡され、しばらく
触っているうちに、これも音階がなんとなく吹ける様になったのだった。
なんだか楽しくなった僕は、先輩達の策略に引っかかり、ブラスバンド部は一名の部員を確保したのだ。
次の日放課後、期待と不安とともに音楽室に入った僕は、愕然とするのだった。
当然のように、あのピカピカで貝細工なんかが入ったサックスが吹けるものだと思っていたのに、「君はわりと出来そうだからコレを頼む。」と手渡されたのが、トロンボーン、、、。
なんじゃこれ!管を二回ほど曲げただけやん???
所定の位置に座ったぼくはまた愕然となった。おなじ楽器の人が、ひとりもいない!なぜ?どうして?よく周りを見渡すと、なんか全体に人数が少ない。
そう、このブラスバンドは新入生が入るまで、十数人しかいなくて、バンドの存続も怪しまれる弱小バンドだったのだ。当然、前の年にトロンボーン吹きはいない。
それにしても他の新入生たちは、優しそうな先輩に教わっているのに、僕の先生は教則本。 しかも楽器は錆び錆びの、つぶしたSの字のようなトロンボーン。
でも、男の子だもん。やるっきゃない!!!
教則本を開き、練習をはじめるのだった。
トロンボーンをかじったことがある、ユーホニュームの先輩が教えてくれたりして、だんだん楽しくなっていくのだったが。
個人練習の時期も終わって、全体練習になった時、あることに気がついた。
トロンボーンはひとりじゃパートにならない。和音になってこそ活きる楽器なのだ。
先生が考えてくれて、ほかの学校のもっと弱小バンドから呼んでくれた人が三年生のトロンボーン、これで悩み解決、楽しい日々がつづいた。
冬になって雪に埋もれた校舎の二階、窓を開けて雪景色を眺めながら、気持ちよく練習していた。
トロンボーンというのはスライドを伸び縮みさせて音程を変えるのだが、腕の短いぼくには遠いポジションはかなりたいへんで、スライドをぱーっと伸ばした時、スライドは右手からはなれ、美しい彷彿線を描いて雪の世界に消えていった。
この景色は一生忘れないだろう。
二年生になると、新入部員の勧誘をがんばり二人の後輩を迎えて、めでたく三人のパートになったのだ。そして二学期になると、運命のギターも始めて二足のわらじを履くことになった。
朝は6時ぐらいからブラバンの朝練、放課後もブラバン、家に帰るのは10時位、それからギターの練習、夜中は親達につきあってマージャン。
みたいな充実した日々だったなあ~!
 中三になる頃にはギターもかなり上達したし、ブラバンのほうもコンクールでいい所まで行く様になっていた。
ところが、我が師匠マサミチャンは本来のフウテンぐせがでたのか突然居なくなってしまった。僕としては家出した猫のようにそのうち帰ってくると思っていたのだが、プッツリとなんの音沙汰もなくなった。しょうがないので同級生のお兄さんがやっていたバンドに参加させてもらって、週一ぐらいでミュージックパブでギターを弾いていた。 
そんなこんなで居なくなったことも忘れかけた夏休みのある日、マサミチャンが突然現れた。ニコニコしながら彼は「マサキチャン、ギターを持って一緒に行こう!」僕は何も考えないでついていった。彼は福井市内のダンスホールのバンドでキーボードを弾いていて、僕にギターを弾かせるために迎えに来たのだった。
水商売の店には馴れている僕にも、ダンスホールで演奏するというのはかなりの違和感だ。特に丸坊主のぼくには、、、
かなり年配のベースの人がバンマスで優しく「よろしくね!」
その言葉で緊張がとれた僕はがぜん張り切るのだった。
そしてショーが始まった。最初に渡された譜面は「夢は夜ひらく」。カウントがなり、女性ボーカルが歌い始め、僕は必死に譜面を追いかけた。
そして2コーラスが終わりかけた頃、バンマスが近寄ってきて
「次 ギターソロね」「え!?、、はい」
どうにでもなれ!とばかりにアドリブソロを弾きまくった。
そのあとはよく覚えていない。気持ちよさと興奮の中でワンステージが終わった。中学生の僕は夜遅くなれないのでそこまででセッションを終えることになった。
メンバーの人たちが握手してくれ、バンマスが夢のような話をしだした。彼は
福井に帰ってくる前、大阪でプロのベーシストとして活躍していて、有名な ジャズオルガンの人(当時の深夜番組で演奏してた)と一緒だったらしいのだが、
もう一回大阪にもどって新しいバンドをやりたいので一緒にこないか?という話だった。
僕はもう映画の主人公だった。天にも昇れたろう。そして「おつかれさま」と
五百円をもらった。宝物の五百円札、、、、、、、、。
僕の人生はこの時決まった!。
家に戻り両親に相談したら、当たり前の様に怒鳴られた。
家出しようと思ったが、とりあえず寝た。
朝になり思った。『おれはまだ子供だったんだ!とりあえず高校に行こう」と。。。
 中三の一年間は僕が一生で唯一勉強したと云える時期だ。
というのも中二の三学期に、なぞの関節炎で学校をず~っと休むことになり、
再び登校したのが期末試験の日でまるでチンプンカンプン。まったく答案が書けなかったのだ。
僕はかなりショックを受け落ち込んだ。もっともこの休みのあいだずーっとギターは弾いていたのでかなり上達していた。
そして三年生になり最初のテスト。前回ほどではないがやはりボロボロ。我が母校では成績を壁に貼り出していたのだが、一学年4クラスしかなかったのに僕のクラスのトップが二十数番目だった。「なんてレベルの低い組なんだろう!しかもその中でも自分の位置は下のほう、、、よしゃあ~やったるで~」
そこで僕はクラスの中でレベルが同じひとりの男子を選び競争することにした。もちろんどっちが上に貼り出されるか?の戦いだ。
そして次の試験の結果は、かなりあがったものの僕たちはまだ何枚目かの壁紙の中にいた。そしてじょじょに登り続き、ついに二十番台に入ったのだ!
しかしここまで来ると、なかなか上にいけるものではない。とうとう戦友は僕に望みを託して離脱していった。
彼との戦いは終わったが、新しい目標が見えて来た。常に上位三着を独占している三人の優等生達だ。しかも彼達はいつも満点かそれに準ずる点数だった。近くまでは追いつくのだが、三人の巨人の壁はとてつもなくぶ厚い。
しかしその日はやってきた。三学期の期末試験、最後のチャンスに完璧な答案を書くことができたのだ。そして発表の日、結果は、、、、、。
三番だった。あとの二人は満点の500点、僕は498点。なんと数学の簡単な問題の答えを書き忘れていたのだった。悔しかった。が、すがすがしかった。書き忘れるなんて俺らしいじゃないか!自分の中では満点だから!でもおしかったなあ~
貴重な達成感の中、中学生活が終わった。
 志望校の武生高校に無事合格したのだが、ちょっとした問題があった。
うちで経営しているスナック『香り』の常連の多くは、これから行こうとしている高校の先生達なのだ。中にはかなり頻繁に通ってくれて、『ナニナニちゃん』みたいに呼ばれていた先生も何人かいたくらいだ。もちろん僕にとっても『ナニナニちゃん』なのだし、ただの酔っぱらいのお客さんである。それが明日から先生と云われても~~?。でも本当に困ったのは先生達だったらしい。何人もの先生に耳打ちされた。『学校であんまりしゃべんなよ~』
まあ入学前から弱みを握っていたとも云える訳だ。
そんなかんだで入学。案の定 担任は旧知のS先生だし他のクラスの担任方も顔見知りの人たちで、始めて出会う人が多い生徒より先生のほうが友達みたいでなんだか不思議な感じだった。
ともあれ僕にとって高校生活はミュージシャンになる一つの過程であってお勉強の場所ではなかった。とうぜん選択科目は音楽をと思っていたのだが、授業見学で見る限り、みんなで歌いましょう的で『ここはコーラス部か?俺が習いたいのは音楽理論や楽器についてであって何か違う』と思い、うっかり美術を選択してしまった。でもなんとか音楽に接していなければ!と思いブラスバンドを覗いたが、期待が大きすぎたせいかそこには理想とするバンドはなく始めて楽器を手にしたような初心者の集まりに見え入部を断念。けっきょくすぐ近くにあった母校の三中のブラバンを教えにいくことにした。
中学のブラバンは僕たち先輩達が頑張った成果でかなりレベルも高く快く僕たちを歓迎してくれたのだったが、舞台に立てるわけでなく演奏への思いがつのるばかりだった。
けっきょく秋口には高校のブラバンに入ることにした。しかし物足りなく充実感のない毎日を過ごしていた。
通学の時は左手にぺらぺらの学生鞄、右手にギターが僕のスタイル。もちろん
ブラバンの部室にもギター。僕は部員の中から洗脳されやすそうなやつを物色し始めていた。目標はエレキバンド。そしてまずK川をだまし、次にY内そしてS木を引きずり込み、練習の終わったブラバンの部室で特訓が始まった。それはほんとうに幼いモノだったが充実感に溢れていた。
ついに自分のバンドの小さい炎がそこに灯ったのを感じることができたのだ!!!
 バンドが始まったものの、とりあえずやらなければならないことが目白押しだ。
まずドレミが弾けるようになること、もちろんコードも覚えること、楽器をなんとかすること、etc 色々あるよね~。とにかく正樹流のギター教室が始まった。ギターもベースも基本的に構造が一緒なのでK川とY内はひとまとめに教えることができたが、ドラムのことはわからないのでS木に『8分できざんで2、4にスネア 足はドントトンで』ぐらいしか云えなかった。彼はブラバンでパーカッションだからなんとかなるだろう。
正樹流は言わばマサミちゃん流である。ローポジのスケールをマスターしたら、次は5フレから始まるペンタトニック(ラドレミソ)を覚えさせて、これが一番重要なんだと叩き込む。
コードについてといえば、例のFコード理論(No.2を読んでね)で短期間にたくさんのコードフォームを覚える。ベースはとにかくルートの音を弾く。たまに五度を弾いてもいいし、乗って来たらペンタでフィル。これらのことを合奏(遊び)しながら身に付けていくのだ。
最初は1コードもちろんAm。ドラムが8ビートを叩きベースはドンストドン、
ギターはひとりがコードカッティング、もうひとりはアドリブソロ。そしてソロを回していくんだ。これが僕らのバンドの練習スタイルだ。
つぎは2コード(Am7-D7)(Cmaj-G7)(C7-F7)などを永遠に繰り返す。
そしてソロまわし。
そのうちブルース進行や3コード、モードに突入していくわけだ。
こんなことをやっているうちに我々は完璧に合奏の楽しさに目覚めていった。
もうやめられない。まるで麻薬患者のようだった。
リズムがぴったりあった時の、いったいこの一体感はなんなのか?
一緒になって盛り上がっていく時の幸福感はなんなのか?
ソロがきまった時の充実感はなんなのか?
演奏が終わった時、時間の感覚がおかしい。ものすごく長くも短くも感じる。
時計を見ると一曲で4、50分ヤッていたなんてことも、しょっちゅうだったな~。
僕らはあの時、別世界旅行をしていたんだ。
K川、Y内、S木 へ
あのころのエピソードを思い出したらメールください。
 ブラスバンドの練習後、部室での僕らのバンドの合奏は、すぐさま他の部員の冷たい目に耐えられず、スナックの2階の僕の部屋に移った。
しかしギターアンプもベースアンプもないわけで、部屋にあったステレオのマイクインに3本のエレキをぶち込むという暴挙に走るしかなかった。もちろんドラムセットもないので、学校から借りてきたスネアとシンバルだけという状態だったが、それでも十分に楽しく入り込んでいた。ところが数日たったある日ステレオから煙がでて息の根が切れた。うんともすんとも云わなくなった。いきなりの窮地だったが、ぐうぜん物置で拡声器のスピーカーとアンプを見つけた。しかもアンプにはインプットが三つも付いていた。試しにギターのジャックを入れてみた。やった!音がでた!でも、、、拡声器のスピーカーだとロー(低音)がなくてチーチーな音、でもしょうがないから3本つないだ。音は出る、しかもかなり
でかい音、でもベースなんか何やってるかわかんないヨ~。それでスピーカーボックスの製作だ。といっても小さい頃親戚からもらった五月人形の兜の箱にこれまた偶然見つけた30センチのスピーカーを入れただけのキューブ型のボックスだった。拡声器と比べると雲泥の差だったが、これもいつまで持つやら、びくびくしながらの練習が続いた。
一日も休まず練習は続き、僕らはブラバンを辞めた。いつのまにか僕の部屋はメンバー以外の仲間達も毎日通ってくる様になり、僕が学校から帰ったときにはすでに数人の友人が部屋にいた。ある日なんか僕が帰ると知らない外人が居たこともあった。聞いてみたら英語のK先生(スナック香りの常連)が松原んちに行ってみろと言ったらしい。ひげもじゃの外人はアメリカの高校生で僕らより一つ若くて、なんと世界旅行の途中にK先生をたずねて日本の田舎まできたらしい、たったひとりで。
おそるべしアメリカ人!いつしか僕らは彼を尊敬のまなざしで見ていた。彼の家は牧場と農業で地平線までジブんちで自家用飛行機があり自分はハーレーに乗っているらしい。ちなみに僕はダックスホンダの50ccだった。僕の心の中にある言葉が浮かんだような気がした『少年よ大志をいだけ』
僕らは話し合い、目標をたてた。バイトしてアンプとドラムを個人個人で手に入れようと。
バイトさがしが始まり、僕は店のお客さんで大工の福ちゃんの下働きに行くことになった。
 大工のバイトに行き始めたけれど内容は本当にお粗末な物だった。最初のうちは木材を運んだり支えていたりの簡単なものだったが、そのうち目立たない押し入れの中の壁の釘打ちとかさせてもらったのだ。が、まずはまっすぐに釘が打てない、打ち付けたはずのベニヤ板はゆび一本ではずれる、裏側から打った釘は表にはみだすなどとても仕事にはならなかった。それでも棟梁は僕がよけいな仕事を増やしたのにもかまわず、やさしくバイトを続けさせてくれた。あの時建てた県営住宅は今でも残っているのかなぁ~?押し入れは壊れなかったかなぁ~?
ひと夏のバイトが終わりお金もなんとか貯まり、ついにギターアンプを手に入れる時がきた。
何を買うかさんざん迷った結果その頃最新式のエーストーンの2段積トラジスタアンプを買った。他のメンバーもバイトの成果でアンプを手に入れた。K川はお金がそんなに貯まらなかったので中古のアンプ、でも二段積。Y内は僕と同じタイプのエーストーンのベースアンプだったと思う。
僕の部屋に3台の二段積アンプが並び、S木が質屋で買ったドラムセットも一緒にセットされたのだ。僕たちはしばし無言で見つめていた。電源を入れると青や赤の光が浮かび上がる、部屋の明かりを消すとそこは夢のイリュージョンの世界、僕たちは歓喜の声を出した!!
音を出したらまた感動!でかい音!ステレオに3本つないだのとは比べ物にならない本物のエレキの音が~流れ~た! しかし一つのことを発見した。K川のアンプのほうが僕のよりなんかいい音?彼のは真空管だった。知らなかった!真空管のほうがいい音するなんて!
でも俺のアンプのほうが高いんだ、ということで納得することにした。
ふたたびマイルームでの練習が始まり盛り上がった。盛り上がったらすぐに苦情がきた。畳やふとんで即席の防音をしてみたが、ついには警察が来た。親の堪忍袋も切れた。
ここから僕たちは練習場所をもとめ放浪の生活がはじまったのだ。
 僕の部屋にはバンドのメンバー以外にも毎日集まってくる人間が増えていた。
小学校の頃は成績優秀だったが高校になると人生や正義や政治や女性なんかで
悩んでるうちに何で悩んでるのか解らなくなって悩んでいるK本。
家が養豚場をやっているので朝の暗いうちから手伝っていて夜の9時にはこっくりこっくり始めるS馬。
髪型は花形ミツルでジーパンの柄も花柄、しかも当時誰も持てなかったマーティンのギターをそんなに弾けないのにいつも持ってきていた放送部のO村。(現在某スタジオのエンジニア)
ある日、中古のオルガンを担いできて「一緒にやらせて」で仲間になった陸上部のO谷。この時彼は鍵盤のドレミの位置しか知らなかった。
吉田拓郎フリークで自称シンガーソングライターのN勢。(のちに有名シンガー
ソングライターの舞台監督をやっていた)
などの個性的な連中がほかにも集っていたがこの頃になると僕の部屋というよりみんなの部室のようになっていて、部室見学の女の子が来たり知らない人が来ててもまったく普通だったのだ。こうなってくると全体がバンドっぽくなったというか、コミュニティーのようだった。
秋の文化祭にバンドで出演した。演奏したのはメロがあんまり決まってないオリジナルの曲と
「枯れ葉」ただしサビなし(コードが難しくなるので省略した)だったと思う。この時の演奏を放送部のO村たちが録音してくれてて、福井の放送局に送ってくれたのだ。そして放送してくれることになった。しかも日曜の夕方放送するから生で電話インタビューを受けることになった。日曜になりラジオと電話の前で家族やバンドのメンバーたちと待った。番組が始まりコーナーになりアナウンサーが電話を回すと、家の電話が鳴った。おそるおそる受話器を取り松原ですと答えると、いきなりラジオから自分の声が出た。不思議な感覚だった。
無事にインタビューを終えて曲がかかったのだが、サビのない枯れ葉だった。ビミョウ、、、僕はまぁ~構わないけど聞いている人達だいじょうぶだったかなあ~と、今でも気にしているのです。
この出来事も僕の’プロミュージシャンに成りたい病’にいっそうの拍車をかけるきっかけになったのだ。
 高校の卒業も見えてきたある日僕はバンドのメンバーに「みんなで一緒にプロになろう!」
と持ちかけたが「正樹、お前はプロになれ!俺たちは趣味でやるから」と一同に言われた。
考えてみれば、そりゃそうだ。何も見えない暗闇に飛び込んでいくようなものだよな。
でも僕にはその道しか考えられなかった。しかしどうしたらいいのか判らず、とりあえず本屋に行って楽典の本を買い、にわかに音楽理論を勉強しなくてはと授業の時間も読みふけっていた。
そんな時、自分と同じように楽典を読みあさってる仲間を見つけた。D野だった。彼は表立ってバンドとかやってないが、ギターリストを目指す同士なのだ。彼は東京で働きながら音楽専門学校にかようらしい。しかし僕は何も決められずで、あせっていた。
そのような状態だと女の子と付き合っていることも罪悪のように感じ出し冷たく彼女と別れた。そんなモヤモヤした中で、ある音楽雑誌に1つの広告を見つけた「ポピュラーの音楽学校!プロへの道!ヤマハ合歓音楽院!生徒募集!」こ、こっ、これだ!これだ!
さっそく担任に頼んで入学試験の願書を取り寄せたが、試験が一次二次三次とあり、どれを受けていいのか解らず二次を受けることにした。あとで判ったのだが一次に落ちた人が二次を受けてもよかったのだったが、僕の田舎にはヤマハの支店がなくて、知るすべもなかったのだった。
そんなわけで二次試験を東京の恵比寿に受けに行ったのだが、早々と願書を出してた僕はギター課受験者の中で受験番号は一番だったのだ。だから当然一科目目の自由演奏が始まったとき、真っ先に僕の名前が呼ばれた。
教室に入ると見るからにプロミュージシャンという感じのバンドがいて試験管に「じゃ始めて下さい」といわれた。僕とっては自由演奏のジユウという言葉しか頭に浮かばず「ではヤリマス!Gのブルース、テンポこれくらい」とバンドとともにアドリブソロを弾き始め、盛り上がり、ピアノの人にソロをまわしたりしちゃったりしてると、「はいもう結構です」と止められ「他にできますか?」といわれて、「16ビートでDドリアン」とかいって前の調子で始めたら、また途中で止められ終わり。楽器をかたずけていると次の受験者が入ってきて、おもむろに各メンバーに譜面を配りだした。えっ!そうなの?そうだったの?こりゃアカン!がっくりきた~。他の科目もはじめての問題ばかりでまったくだめで肩を落として帰った。
田舎に帰り、どうしたものかな~などと考えていたある日、なんと!合格通知がとどいた。
あとで判ったのだが、あの自由演奏が最高にうけたらしい。ヤッター
他の同級生達はこらから受験なのに、僕だけ真っ先に進路が決まっちゃったのだった。
それまで松原と付き合うな!と言っていた先生も「彼のようにやりたいことをちゃんと見つけた人が楽になるんだ」などと手のひらを返したように誉められて、なんか複雑な気持ちになりながらもやはり、希望に胸を膨らせていた時間であった。
 高校の卒業も迫ったころ、バンドのメンバー三人も無事に大学に合格した。
バラバラになる前にもう一度最後の演奏会をヤリタイ!ということで、実家のスナック「香り」を貸してもらって一日だけのライブハウスを開くことにした。
音量のこともありライブはお昼にした。お客さんはもちろん顔見知りの友人たちだし、D野の妹がウエイトレスをかってでてくれた。初めて逢ったのだが可愛い!(後に彼女が最初の妻になるのだ)
演奏が始まり友人たちも飛び入りしてくれ盛り上がった。なんかあっという間に終わってしまった。あっという間の三年間、、、。
 みんなで青春ドラマのように河原を散歩した。みんな無言。いつの間にかD野の妹としっかり手をつないでいた。ドキドキ。
 次の日 ぼくは音楽院に入学するために父の運転する車で三重の合歓の里に向かった。
なぜかバンドのメンバーも便乗してついてきたのだった。福井から三重まではかなり遠い。色々な町を通過しながら色々なことを考え、色々なことをしゃべったがまだ着かない。ようやく近づいてきたがそこは山だらけのド田舎!なぜ田舎からド田舎にいかなくちゃいけないの?と思ったら涙が出てきた。
しかし いざ合歓の里に到着したら、そこはリゾート、広大な遊び場ではないか!
 そして入学式、というよりウエルカムパーティーが始まり在校生のバンド演奏。さすがに巧い。そしたら何人かの名前が呼び上げられ僕の名前も入っていてステージに上げられ演奏。新入生もなかなかのもの、やはり全国から集まってきただけのことはある。
案内された寮は二人部屋の家具つき冷暖房完備の快適な部屋で、同室になったのがベースの永本忠(彼は後にソーバットレビューのメンバー)で背がとても高くとっても優しい人だった。ラッキー!
これからの学園生活にワクワクドキドキの初日が始まった。
 合歓音楽院に入って最初に安心したことは、二人部屋のパートナーに恵まれたことだった。彼はとっても温厚でやさしいベーシスト。合歓の郷から割と近くの伊勢市の出身で僕より緊張感がなくて、なんだか楽な感じでいてくれた。
まして実家が近いこともあってコレクションのLPレコードをいっぱい持って来ていたのだ。彼のコレクションはソウルミュージックや、ブラックミュージックなどのジャンルで僕が聞いて来たジャズやロックとは似て違うジャンルだった。
彼は毎晩気に入ったレコードを聞かせてくれた。これによって今までワンマンバンドをやっていた僕がリードギターよりもバッキングのギターに興味を持つ事になったのだ。
 当時、生徒達は朝早く押さえれば一戸建ての練習棟をリハーサルの場所として使えたのだが、それ以外の個人の練習場所として気に入った場所があった。それは寮の階段!なぜかというと、リズムギターの練習をするときにちょうどいい加減の残響がかかってとてもいい気持ちになるんだよ!それこそ無我夢中でリズムの練習をしたものだ。
 音楽院の授業は今から考えるととても興味深い内容だった。実践的な音楽の授業の他に英会話などもあったのだが、僕が一番印象的だったのは、ディスクジョッキーとして草分けだったオールナイトニッポンの名司会者の糸井五郎さんの授業だった。彼の秘蔵コレクションの中の色々なアーチストのライブフィルムの
「映写会」を数多くやってくれたり、バンド演奏に対するサジェスチョンを与えてくれた。
実践的な音楽の授業もかなり濃い内容で、きれいに譜面を書くところから、コードプログレション、4Voiceのアプローチなど、19歳としてはかなり難しいところまでいく内容だった。しかし僕としては、いくら全国から集められた優秀な音楽家といっても、全校生徒40人ぐらいの中で満足いくサウンドを作ることよりも、未知の世界に憧れる気持ちのほうが日増しに大きくなってくるのだった。
 音楽院に閉じ込められて数ヶ月がすぎた頃、合歓の郷の中にあるステップインというライブスペースでプロによる演奏があるとのことでわくわくして聴きに行った。「大村憲司」ひきいる「エントランス」というギタートリオ。そこには村上ポンタもいた。そこで聴いたのは、今までの日本人の演奏では聴いた事のないジャズとロックの融合だった。大きな衝撃!!自分のやりたいことが見えて来たように思ったのだった。
そのあとも色々な刺激的な出会いがあった。合歓のプールサイドで数日間バンド演奏をした「上田正樹とバッドクラブバンド」や同時期に合宿で合歓に来た「ウエストロードブルースバンド」そしてその時に僕たち合歓の生徒と三者で行われたオールナイトブルースセッション。その大きな経験により、もはやここは自分の居るべき場所ではないとさえ思えてくるのだった。セッションの次の日上田正樹さんから新しいバンドへの誘いを受けた。めちゃ嬉しかった!でも大阪にいく気になれなかった。
 僕にとってまず始めに東京にという気持ちがあったのだろう。東京に行けば何かあるはずだと思い焦がれるようになっていたのだ。
合歓音楽院も入学から半年すぎた頃、先に合歓をやめていった仲間からバンドを一緒にやりたいという連絡がきた。内容は東京圏内の米軍キャンプバンドを中心とした活動で事務所もちゃんとあるとのことだった。それで僕は打合せに東京に行く事になった。六本木の喫茶店で待ち合わせをして、誘ってくれたドラマーの彼と会い、次に現れたのはベーシスト。まるで浮浪者のようないでたちにびっくりしたものの、今まで出会ったの事のない魅力を感じた。
次に会ったのはピアニスト。神経質な風貌なのだがしゃべってみるとノーテンキで面白そう。それでいてジャズにもポップにも精通してそうな感じだった。
この時点で僕の心は決まった。というよりなにかしらの魅力があるだけで「東京」に進出したかったんだと思う。僕の心は東京にいた。
さっそく荷物をまとめ東京の縁者に頼りバンド活動を始めたのだが、当時の米軍キャンプの仕事は45分ステージを4回こなす必要があり少なくとも4、50曲のレパートリーを持っていなくてはならなかった。当時の洋楽のヒット曲にプラス自分たちのやりたいスティービーやダニーハザウェイなどの曲にスタンダードの曲も増やして、お互いにカセットテープで持ち帰り独自にコピーして数日のリハーサルで60曲ぐらいの持ち曲にして仕事に挑んだのだった。
そしてキャンプでの演奏活動が始まった。キャンプのゲートではMPの検問を受け出演するクラブに事務所で購入した車(月賦はバンドのギャラから天引きの)ハイエースで向かう。
キャンプ内はおもいきりアメリカだった。お客さんは僕らと同じぐらいの二十歳前後。(当時ベトナム戦争は終わってなかった)黒人と白人が混ざり合っている世界だし、出された食事は見た事もないぐらい大きなハンバーガーだし何よりも客のノリがいい!気に入ってくれるとテーブルに呼んでくれておごってくれたりした。でも時には黒人からはソウルナンバーを演奏しろと言われ白人からはカントリーロックを演奏しろと言われ、あげくのはてには殴り合いのけんかが始まり困った果てにサンタナの曲を演奏してまとまりがついたこともあった。
そしてある別の日の将校クラブでの演奏ではまったく違うジャンルのスタンダードの曲を演奏しなくてはならなかったりもしたが、この時期は今の自分を生成する重要な時期に違いなかったと思えるのだ。この経験がいまでも僕を支えていてくれるのだ!
 米軍キャンプバンド時代で一番の思い出は、三沢のキャンプでのことだ。
12月31日の夜から1月1日にかけてのNew Year Party で演奏することになり例によってハイエースにマネージャーを含めた5人と楽器を積み込み青森県に向かった。 最初は快調な旅だったが、北にどんどん進むにつれ日が暮れだし、だんだんに天候も悪くなりついには雪が舞ってきた。 そのうち雪は嵐のごとくなり、ある峠のふもとでついにチェーンなしでは走行不可能になった。 路肩に車を止めてチェーンを装着することになりジャッキで車を持ち上げタイヤをはずしチェーンを装着した、、、、、そこまではよかったのだが、、、、、、、、、ここから悲劇がはじまる。 タイヤを着けようとしたらなんと、タイヤを固定するネジが凍った道路と一体化してまったく取れなくなったのだ。 しょうがないので座り込んでほじくりかえすがなかなか取れない、みんなでドライバーとかボールペンだとか色々でほじくりまわしやっとのおもいで分離することが出来た。 ヤッター、、、、、、、、と、ところが、こんどは座り込んでいた僕のジーパンの膝から下が道路と一体化していたのだ。 立ち上がることも出来ないし冷たさで足の感覚もなくなってきた。 身の危険を感じた僕はエイとばかり立ち上がった。 その瞬間無情な音とともにジーパンの膝から下は道路の一部と化した。 このジーパンは普段着でありながらもちろん大事なステージ衣装、しかも替えのパンツはもっていない。
 がっくりしながらも旅を続け明け方三沢に到着したころには雪も上がっていた。キャンプの前のぼろ旅館で仮眠をとり夕方会場にむかった。 ステージの上に楽器をセッティングしてリハーサルを始めた。 ところがギターアンプからはなんの音も出ない???長旅の振動で壊れたらしい。 なんでーなんでなのオレってそんなに神様に憎まれてんのーもー#%&$。 結局ステージの裏に置いてあった古いステレオにギターをつないでやることになった また高校時代にぎゃくもどりかよー でもまあ音がでただけでもと思い、いい音はでないけどしょうがないじゃんとばかりにリハを終え本番を迎えた。
 会場は古かったがかなり広く千人近い米軍の家族が集まった。 パーティーが始まるとやはりそこはもうアメリカな感じで、バンド演奏が始まったときにはすっかり楽しくなっていた(ジーパンは破れたままだったが)
 そして宴も佳境にさしかかりカウントダウン。5、4、3、2、1、Happy New Year 最高潮になったとき思わぬことが、、、、、、
なんと、、なんと会場にいたすべての女性がステージに上がってきてバンドのメンバーとキスをはじめた! もうキスの嵐! 何百人の女性と一度にキスするなんてありえないよね。 しかもジンガイだよ! これを「天国」と呼ぶのに違いないと思ったのであった。 へへへ
これって人生の教訓みたいだね「苦しいことのあとには楽しいことがやってくる」
年が明けてキャンプバンドの仕事が本格的に始まった。東京近郊の様々なキャンプに行ったのだが、場所によっては曲目も変更しなくてはならず、40~50曲のレパートリーでは足らず絶えず新曲を増やし続ける必要があった。徴兵で来たばっかりの兵隊さんたちの前では流行りの洋楽だし、将校クラブではスタンダードナンバーだし、時には知らないおばさんカントリー歌手のバックも務めなくてはならない。しかし、僕たちのように洋楽を目ざすバンドにとってお客さんが全てアメリカンというのはとっても刺激的で、年も近いのでイイ反応を貰えた。しかし冨士のキャンプのように明日ベトナムに出兵するかもしれない若い兵隊のいるキャンプは大変だった。白人の兵士はCCRに代表されるカントリーロックをやってくれというし、黒人兵はソウルやR&Bをやってくれといってカマボコ兵舎の中で取っ組み合いのケンカが始まるのだ。でもそう言う時は何故かサンタナをやれば治まったものだった。ラテンロックおそるべし!!時にはNY出身のDJをやっていたという黒人兵がドラムを演りたいというのでステージに上げてみたら、めちゃくちゃリズム音痴だったりする。横田基地に行った時などは、いきなりキングストントリオの前座だったりもした。基地に向かう途中にFEN放送を聞いていると、DJが、どこそこでこんなバンドが出演するという紹介が始まると「コレ俺達じゃねーの」と大騒ぎ。でも演奏が終わってハイエースが到着するのは、真夜中の横浜駅。僕は始発電車を当時150円でオールナイト居座れたピンク映画館で待つのが常だった。
キャンプバンドやっていたのだが、収入的にきつくなりハコバンドの仕事をする事になった。場所は蒲田のパブ。18時から45分ステージを4回で休日無し。かなりキツそうだが若いからまったく大丈夫。だが支配人から聞いた話によると前のバンドはリクエストの事で赤いシャツの軍団にボコボコにされたそうで、階段には血の痕が残っていた。ともあれ、リハも済んで1stステージから順調に進み3回目が始まった頃ぞろぞろと赤いシャツの軍団が入ってきた。緊張の一瞬である。まもなくその中の若い衆がやって来て「赤とんぼヤレ!」「えっ?赤とんぼって?」「日本人なら知ってるやろ。夕焼け小焼けの赤とんぼじゃ!」  モチロン次の曲は、赤とんぼを歌ったのだ。するとタイソウ気に入られたらしくステージが終わると僕たちは席に呼ばれ「イイ!!バンドやのー。まー飲め!」とご馳走になったのだった。それから以後赤シャツが現れるたんびに赤とんぼを演る様になり、すっかり軍団と仲良しになったのだ。ahahaha~ そんなかんなで一ヶ月目の前に支配人から夜中のバンドが今月で辞めるので僕たちのバンドにヤらないか?と云う話がきたのだが、丸一ヶ月休み無しでソロソロ体力がキツくなってきているのに一日八回ステージはツライよね?と云いながら、倍の給料に惹かれてやる事になった。しかし八回ステージはさすがにキツく、毎日始発で帰るのもツラかった。そのうちアパートに帰ると、胃痙攣でもがき苦しむこともしょっちゅうになった。二ヶ月目が終わるとキーボードがネヲアゲテ辞めた。三ヶ月目はギタートリオで耐え忍んだが、その月にバンドは解散になった。その日から数ヶ月の間プータロー生活に突入した。
ネム音楽院入学から米軍キャンプそしてハコバン時代と書いてきたが、これが19歳のたった1年間の話である。僕にとって人生の中で一番の転機の時期だった。とにかくまがいなりにもプロミュージシャンの端くれになったのだからネ。
時期は前後するが米軍キャンプバンドをやっていた1月か2月の頃、始めてスタジオでのレコーディングの仕事を戴いたのだ。内容は映画の劇番(劇中に使われる音楽)の録音で勝新太郎主演の「御用牙」という映画だった。当時の僕は車も持ってなかったのでバイブロソニックというかなり重いギターアンプとギター、そしてちょっとしたエフェクターを電車ではこび「アオイスタジオ」というその当時でもかなりの歴史のあるスタジオに入った。大きなスタジオの出入り口の横にギターのセットをして、ふと横を見るとそこにはなんと勝新太郎本人が立っていたのだ。圧倒的な存在感だった。自分がエラくなったような気さえした。
当時は同録(すべての楽器類を同時に録音すること)だったので何十人ものミュージシャンがスタジオにいた。指揮者が所定の場所に立ちスクリーンに映し出される映像に合わせて録音する、しかもその日一日で映画に使用されるすべての曲を録り終えるのだ。譜面台に積まれたたくさんの譜面に唖然とするのであった。
そしてついに最初の曲の録音が始まった。譜面の冒頭にGuit. Soloと書かれていたので、夢中にアドリブソロを弾いていた。曲が終わると「OK」と書かれたランプが点灯、僕は不安になりアレンジャーの人に「だいじょうぶですか?」と聞くと「ソロは最初の8小節のつもりだったけどOKが出てるからいいんじゃない」と言われどっきり!僕は曲の最初から最後までソロを弾いてしまった。赤面赤面‥‥‥‥。
その後は解らないことはアレンジャーに尋ねながらなんとか録り終えることが出来たが、かなり遅い時間になっていた。ギターをかたずけて外に出ると一面の銀世界!僕はギターアンプを押しながらトボトボ地下鉄六本木駅に向かい歩き始めた。ようやくアマンドの横の坂道にさしかかったのだが、路面は完全に凍結していてなかなか登れない。体をほとんど寝かすようにアンプを押しながら坂をのぼっていくのだが、五、六歩いくとずるずると滑り落ちる、気を取り直して押し始めてもまた滑り落ちる・・・。たった数十メートルの坂道を1時間以上かけて登りきり、やっとの想いで駅に到着した。が、なんと雪のために電車はストップ。僕の疲労は肉体的にも精神的にもピーク。アパートに着いたのは完璧に明るくなってからだった。こうして長くて忘れられない日は終わった。
バンドが解散して何もやることがなくなった。
アパートでじっとしていた。
が、2or3日が限界だねー。外に出ることにした。
割と近い大学の食堂に紛れ込んで安いめしを食うとか、NHKの食堂で安いめしを食うとかだ。がしかし、
いくら安いめしといっても食べるだけでは何も実りがないので、新宿の街を朝からぶらついた。とにかくぶらぶらぶらりとあてもなく、フーテンの松って感じかな。
その内新宿にはライブハウスがたくさんあることを発見した。しかもPIT INNなんかでは朝の部や昼の部はかなり安い値段で入れることが判明、おそるおそる朝の部に入店してみた。薄暗い店内にがいコーヒーまばらな人たち、そして暗くてさっぱり解んないフリージャズ。
油断してつい寝てしまった!
が、周りを見回すとみんな寝ていた・・・・だよね。
数日そんな日やあんな日過ごしたときに、昼の部の看板に「出演・・・・ソウルメディア」朝の部から比べると値段は高いのだが「ソウル」と云う文字に惹かれて入ってみた。演奏が始まるとすぐに僕の目と耳はダニーハザウェーがかぶっていたような帽子のベーシストに釘ずけになった。すばらしいグルーブに心が躍った。
彼こそ名ベーシスト岡沢章氏だったのだ。このあと数年後に一緒に仕事することになるなんてまったく考えていなかった僕はこのバンドを何回か追いかけることになる。正樹もうすぐ20歳の頃
バンドが一日8ステージという過酷なスケジュールに耐えれず解散してから、
二十歳の誕生日を迎えるころになってもゴロゴロしていた。
そんな時バンドの仲間からお呼びがかかりセッションに出かけた。
その内容はヤマハ所属のシンガーソングライターのバックバンドで、彼等は
すんなりと僕を受け入れてくれて一緒にステージをやることになった。
とても食べていけるような収入ではなかったが、プータローに比べたら天国で
あった。彼等との仕事は割と短い期間だったが、その後もヤマハのアーティストのバックを務めることになったのだ。
そのときの話だが、あるマネージャーから僕にバックバンドのメンバーを集めてほしいとの依頼があった。嬉しいことだったが僕にはほとんどミュージシャンの知り合いがいないし、いいかげんな人を紹介するわけにはならないし、
悩んだすえに駄目もとでネム音楽院の先生方にお願いしたのだ。
これが人生の転機になった。なんと先生方は快くOKしてくれたのだ!しかも
僕のギャラは先生方と同額!今までの10倍以上に跳ね上がった!hoo〜
といっても今考えればやっと人並みになったということなんだけどね。
その頃としては驚喜の沙汰だった。やっと見えてきたプロミュージシャンへの
道だったと言える。それから暫くはヤマハ事業部があった恵比寿や、その後渋谷のエピキュラスに通う日が続く。
一年後ぐらいのある日ある先輩ミュージシャンからセッションのお誘いを受け
道玄坂ヤマハのスタジオに向かった。なんでも先輩と同じく関西出身の面白い人たちだからという情報だけを持って・・・・
スタジオにいたのは「HI-FI SET」の3人とプロデューサーでキーボードの
松任谷正隆氏とドラムスの重田氏、そして譜面が配られた。そこには今まで
やってきた曲とは毛色の違ったシャレたコード進行、そしてやたらに
メージャー7が際立つ。思わずにんまり!
そしてカウントがはじまる。フェンダーローズの小気味好い音色、
軽快な16ビート、そして山本潤子さんの素晴らしい歌声そしてハーモニー 
おまけにユーミンの楽曲。と、こっ、これは楽しい!! 何曲やっただろうか?
あっというまに楽しいセッションは終わってしまった。挨拶をして家路に向かっているとマネージャーが追いかけてきて「食事でも」と誘われレストランへ行った。なんと!一緒にやりましょうと誘われたのだ。「考えさせてください」とは言ったものの心は決まっていた。その後の家路はルンルン。
次の日には現行のシンガーソングライターにバックをやめたい趣旨を伝えるべく頭を下げまくっていた。
ここから「HI-FI SET」のツアーに参加することになった!やったどー!
ハイファイセットのバックメンバーに決まり、いよいよ合宿リハーサルが
始まる事になった。そういえば確か場所は国領のYMCAで「猿の軍団」という(猿の惑星のパクリ的な)TV番組の撮影に使われた言わば洋館のお化け屋敷としか言えない施設。そこのリビングでリハをやる訳なのだ。正式に決まったメンバーと顔合わせになった。ドラムとキーボードはオーディションの時にもいた重田マトンと松任谷氏、ベースは宮下恵介、そしてギターは私の4人のリズム隊+ハイファイセットの3人という顔ぶれだった。
楽器のセットアップをしてるところにもう1人、つるんとした顔の女性が現れた! 何とユーミンだった。彼女はハイファイセットには欠かせない作詞作曲家で大事な仲間のひとりだ。バックバンドの名前「ガルボジン」の命名者でもある。
リハーサルが始まるとやはりこのメンバーは凄い!好きな感じ!心地よいサウンド!これなんだよ!
なんだか顔がゆるんでくるのでした。
でも夜は幽霊騒ぎで眠れませんでした。
今でもあの建物は存在してるのでしょうか?多分ないよね~。
その後 場所を変えてのリハーサルでのことです。驚いた事に今まで無かった大きな前面鏡張りのスタジオ(赤坂TBSの近くだったと思う)で初めての舞台監督という存在がいて 、もっと驚いたのは振付師がつくということ 、その振付師の見た目はマービンゲイかクインシージョーンズなのに日本人だ!そして振付されるのはハイファイセットの3人だけと思っていたのに 立って演奏しているギターとベースは容赦なく動かされたのです。
緊張の中、暫くして「アレッ?あっっ、そーか」気が付いたのだが二人ともいわゆるオネエコトバなのよ!
皆さん想像してください…眼鏡の怖そうな舞台監督とマービンゲイの振付師にオネエコトバで怒られてる僕の姿を。
でもだんだんに気持良くなってくるのです。ステージでの本番を想像すると!
今では振付があるステージ、ましてやP.A装置があるなんて当たり前かもしれませんが当時(70年代)としては画期的だったのですネー。
ここからしばらく僕の「ハイファイセット時代」が始まります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 練習場所に困っていた僕たちは、なんとか学校でできないか?と考え一つのアイディアを思いついた。 同好会という形をとることだったが、顧問の先生が必要なのだ。 当時の高校の先生達はわりと年配の人が多かったので体育の若い先生を口説き落とし、空いている教室を放課後に使用させてもらうところまで漕ぎ着けて、ようやく初日になり、楽器をリヤカーで運び込み、セットし、電源をつなぎ、演奏が始まった。やっぱりみんなで大きな音で合奏するのは楽しい!これでバンドの練習いっぱいできる!、、、、、はずだった。 顧問の先生が職員室から飛んできて「ヤメロ ヤメロ!!」 僕たちの音楽は騒音となって職員室に響きわたり、一斉に苦情の嵐になったのだ。
同好会は初日でおわった。
また放浪の日々か?と落ち込んだ。 ところが広い田んぼの中の一軒家の農作業小屋を格安で借りることができた。 中は農作業機材やワラの山が置いてあったがバンドをやるには十分のスペースがあり、なによりどんなに大きい音を出しても大丈夫なのだ。ただ真夏の小屋の中は猛烈に暑い!のだが、これがまたバンドの盛り上がりに拍車をかけてくれる。 思う存分に毎日練習に明け暮れたのだった。
夏休みのある日、練習が終わったあとK川とふたりで自宅の近所を散歩していると向うから同級の女子が歩いてきた。 しばらく立ち話をして、僕の部屋で遊ぼうということになった。
三人はトランプを始めたのだが、夏の暑さのせいかいつのまにかゲームに負けた人が一枚ずつ服を脱いでいく遊びに変わっていた。 そのうち時間のかかるゲームがかったるくなり、カードを引いて自分が宣言した数に一番遠い人が脱ぐことになっていた。 僕たちは頭をつかい7とか8とか宣言するのだが彼女は極端な1とか13とか言うので、彼女がどんどん脱ぐはめになっていった。 下着姿になった彼女がついにもう一枚脱ぐことになったのだ。 すると「イヤーン」と言ってとつぜん僕に抱きついてきた。 K川はしらけて帰ってしまった。
しばらく頭の中が真っ白になっていたが、気がつくとふたりはほとんど裸で身を寄せ合っていた。 僕の頭の中には「初・体・験・」という文字が激しく行き来していた。 次の瞬間一階のほうからおふくろの声が聞こえた。ヤバイ、やばい。 ふたりはあっという間に服を着て何事もなかった様に間隔をとったのだった。やっぱり自宅はまずいなあ~。でもまてよ 俺には例の農作業小屋がある!ぜったいチャンス!逃すことはない。 再会を約束して彼女を送った。
数日後僕たちは誰もいない小屋の鍵を開け忍び込んだ。 服を全部脱ぎ捨て、さあこれからというまさに其の時、ドドドドという音が近づいてきた。 持ち主が農作業を終えて帰ってきたのだ。まさに絶体絶命!ふたりはとっさに素っ裸でワラの山の中に飛び込み息をひそめた。 耕耘機が小屋の中に戻ってきたらしい。 足音が近づいてさらに息をひそめた。 足音が止まった。
見つかったか? が、足音が遠のいてシャッターがしまる音。 タスカッタ。 ホットした。 しかしもう行為に戻ることはできない。
こうして僕の初体験は遠のいたのだった。
神聖な練習場所でみだらなことをやっちゃだめだめ!でした。