音楽院に閉じ込められて数ヶ月がすぎた頃、合歓の郷の中にあるステップインというライブスペースでプロによる演奏があるとのことでわくわくして聴きに行った。「大村憲司」ひきいる「エントランス」というギタートリオ。そこには村上ポンタもいた。そこで聴いたのは、今までの日本人の演奏では聴いた事のないジャズとロックの融合だった。大きな衝撃!!自分のやりたいことが見えて来たように思ったのだった。
そのあとも色々な刺激的な出会いがあった。合歓のプールサイドで数日間バンド演奏をした「上田正樹とバッドクラブバンド」や同時期に合宿で合歓に来た「ウエストロードブルースバンド」そしてその時に僕たち合歓の生徒と三者で行われたオールナイトブルースセッション。その大きな経験により、もはやここは自分の居るべき場所ではないとさえ思えてくるのだった。セッションの次の日上田正樹さんから新しいバンドへの誘いを受けた。めちゃ嬉しかった!でも大阪にいく気になれなかった。
 僕にとってまず始めに東京にという気持ちがあったのだろう。東京に行けば何かあるはずだと思い焦がれるようになっていたのだ。
合歓音楽院も入学から半年すぎた頃、先に合歓をやめていった仲間からバンドを一緒にやりたいという連絡がきた。内容は東京圏内の米軍キャンプバンドを中心とした活動で事務所もちゃんとあるとのことだった。それで僕は打合せに東京に行く事になった。六本木の喫茶店で待ち合わせをして、誘ってくれたドラマーの彼と会い、次に現れたのはベーシスト。まるで浮浪者のようないでたちにびっくりしたものの、今まで出会ったの事のない魅力を感じた。
次に会ったのはピアニスト。神経質な風貌なのだがしゃべってみるとノーテンキで面白そう。それでいてジャズにもポップにも精通してそうな感じだった。
この時点で僕の心は決まった。というよりなにかしらの魅力があるだけで「東京」に進出したかったんだと思う。僕の心は東京にいた。
さっそく荷物をまとめ東京の縁者に頼りバンド活動を始めたのだが、当時の米軍キャンプの仕事は45分ステージを4回こなす必要があり少なくとも4、50曲のレパートリーを持っていなくてはならなかった。当時の洋楽のヒット曲にプラス自分たちのやりたいスティービーやダニーハザウェイなどの曲にスタンダードの曲も増やして、お互いにカセットテープで持ち帰り独自にコピーして数日のリハーサルで60曲ぐらいの持ち曲にして仕事に挑んだのだった。
そしてキャンプでの演奏活動が始まった。キャンプのゲートではMPの検問を受け出演するクラブに事務所で購入した車(月賦はバンドのギャラから天引きの)ハイエースで向かう。
キャンプ内はおもいきりアメリカだった。お客さんは僕らと同じぐらいの二十歳前後。(当時ベトナム戦争は終わってなかった)黒人と白人が混ざり合っている世界だし、出された食事は見た事もないぐらい大きなハンバーガーだし何よりも客のノリがいい!気に入ってくれるとテーブルに呼んでくれておごってくれたりした。でも時には黒人からはソウルナンバーを演奏しろと言われ白人からはカントリーロックを演奏しろと言われ、あげくのはてには殴り合いのけんかが始まり困った果てにサンタナの曲を演奏してまとまりがついたこともあった。
そしてある別の日の将校クラブでの演奏ではまったく違うジャンルのスタンダードの曲を演奏しなくてはならなかったりもしたが、この時期は今の自分を生成する重要な時期に違いなかったと思えるのだ。この経験がいまでも僕を支えていてくれるのだ!