<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	>

<channel>
	<title>松原正樹のコラム</title>
	<atom:link href="http://www.matsubaramasaki.com/column/?feed=rss2" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://www.matsubaramasaki.com/column</link>
	<description>ギターと出会ってからの歴史を綴っています。</description>
	<pubDate>Thu, 29 Apr 2010 16:13:07 +0000</pubDate>
	<generator>http://wordpress.org/?v=2.5.1</generator>
	<language>ja</language>
			<item>
		<title>No.20　「新宿のダニー」</title>
		<link>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=23</link>
		<comments>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=23#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 29 Apr 2010 16:13:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>rockingchair</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[ギターとの出会い]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=23</guid>
		<description><![CDATA[バンドが解散して何もやることがなくなった。
アパートでじっとしていた。
が、2or3日が限界だねー。外に出ることにした。
割と近い大学の食堂に紛れ込んで安いめしを食うとか、NHKの食堂で安いめしを食うとかだ。がしかし、
いくら安いめしといっても食べるだけでは何も実りがないので、新宿の街を朝からぶらついた。とにかくぶらぶらぶらりとあてもなく、フーテンの松って感じかな。
その内新宿にはライブハウスがたくさんあることを発見した。しかもPIT INNなんかでは朝の部や昼の部はかなり安い値段で入れることが判明、おそるおそる朝の部に入店してみた。薄暗い店内にがいコーヒーまばらな人たち、そして暗くてさっぱり解んないフリージャズ。
油断してつい寝てしまった！
が、周りを見回すとみんな寝ていた・・・・だよね。
数日そんな日やあんな日過ごしたときに、昼の部の看板に「出演・・・・ソウルメディア」朝の部から比べると値段は高いのだが「ソウル」と云う文字に惹かれて入ってみた。演奏が始まるとすぐに僕の目と耳はダニーハザウェーがかぶっていたような帽子のベーシストに釘ずけになった。すばらしいグルーブに心が躍った。
彼こそ名ベーシスト岡沢章氏だったのだ。このあと数年後に一緒に仕事することになるなんてまったく考えていなかった僕はこのバンドを何回か追いかけることになる。正樹もうすぐ20歳の頃
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div>バンドが解散して何もやることがなくなった。</div>
<div>アパートでじっとしていた。</div>
<div>が、2or3日が限界だねー。外に出ることにした。</div>
<div>割と近い大学の食堂に紛れ込んで安いめしを食うとか、NHKの食堂で安いめしを食うとかだ。がしかし、</div>
<div>いくら安いめしといっても食べるだけでは何も実りがないので、新宿の街を朝からぶらついた。とにかくぶらぶらぶらりとあてもなく、フーテンの松って感じかな。</div>
<div>その内新宿にはライブハウスがたくさんあることを発見した。しかもPIT INNなんかでは朝の部や昼の部はかなり安い値段で入れることが判明、おそるおそる朝の部に入店してみた。薄暗い店内にがいコーヒーまばらな人たち、そして暗くてさっぱり解んないフリージャズ。</div>
<div>油断してつい寝てしまった！</div>
<div>が、周りを見回すとみんな寝ていた・・・・だよね。</div>
<div>数日そんな日やあんな日過ごしたときに、昼の部の看板に「出演・・・・ソウルメディア」朝の部から比べると値段は高いのだが「ソウル」と云う文字に惹かれて入ってみた。演奏が始まるとすぐに僕の目と耳はダニーハザウェーがかぶっていたような帽子のベーシストに釘ずけになった。すばらしいグルーブに心が躍った。</div>
<div>彼こそ名ベーシスト岡沢章氏だったのだ。このあと数年後に一緒に仕事することになるなんてまったく考えていなかった僕はこのバンドを何回か追いかけることになる。正樹もうすぐ20歳の頃</div>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.matsubaramasaki.com/column/?feed=rss2&amp;p=23</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>No 19 「 始めてのスタジオミュージシャン」</title>
		<link>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=22</link>
		<comments>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=22#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 16 Apr 2009 16:34:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>rockingchair</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[ギターとの出会い]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=22</guid>
		<description><![CDATA[ネム音楽院入学から米軍キャンプそしてハコバン時代と書いてきたが、これが19歳のたった1年間の話である。僕にとって人生の中で一番の転機の時期だった。とにかくまがいなりにもプロミュージシャンの端くれになったのだからネ。
時期は前後するが米軍キャンプバンドをやっていた1月か2月の頃、始めてスタジオでのレコーディングの仕事を戴いたのだ。内容は映画の劇番（劇中に使われる音楽）の録音で勝新太郎主演の「御用牙」という映画だった。当時の僕は車も持ってなかったのでバイブロソニックというかなり重いギターアンプとギター、そしてちょっとしたエフェクターを電車ではこび「アオイスタジオ」というその当時でもかなりの歴史のあるスタジオに入った。大きなスタジオの出入り口の横にギターのセットをして、ふと横を見るとそこにはなんと勝新太郎本人が立っていたのだ。圧倒的な存在感だった。自分がエラくなったような気さえした。
当時は同録（すべての楽器類を同時に録音すること）だったので何十人ものミュージシャンがスタジオにいた。指揮者が所定の場所に立ちスクリーンに映し出される映像に合わせて録音する、しかもその日一日で映画に使用されるすべての曲を録り終えるのだ。譜面台に積まれたたくさんの譜面に唖然とするのであった。
そしてついに最初の曲の録音が始まった。譜面の冒頭にGuit. Soloと書かれていたので、夢中にアドリブソロを弾いていた。曲が終わると「OK」と書かれたランプが点灯、僕は不安になりアレンジャーの人に「だいじょうぶですか？」と聞くと「ソロは最初の8小節のつもりだったけどOKが出てるからいいんじゃない」と言われどっきり！僕は曲の最初から最後までソロを弾いてしまった。赤面赤面‥‥‥‥。
その後は解らないことはアレンジャーに尋ねながらなんとか録り終えることが出来たが、かなり遅い時間になっていた。ギターをかたずけて外に出ると一面の銀世界！僕はギターアンプを押しながらトボトボ地下鉄六本木駅に向かい歩き始めた。ようやくアマンドの横の坂道にさしかかったのだが、路面は完全に凍結していてなかなか登れない。体をほとんど寝かすようにアンプを押しながら坂をのぼっていくのだが、五、六歩いくとずるずると滑り落ちる、気を取り直して押し始めてもまた滑り落ちる・・・。たった数十メートルの坂道を1時間以上かけて登りきり、やっとの想いで駅に到着した。が、なんと雪のために電車はストップ。僕の疲労は肉体的にも精神的にもピーク。アパートに着いたのは完璧に明るくなってからだった。こうして長くて忘れられない日は終わった。
 
 
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ネム音楽院入学から米軍キャンプそしてハコバン時代と書いてきたが、これが19歳のたった1年間の話である。僕にとって人生の中で一番の転機の時期だった。とにかくまがいなりにもプロミュージシャンの端くれになったのだからネ。</p>
<p>時期は前後するが米軍キャンプバンドをやっていた1月か2月の頃、始めてスタジオでのレコーディングの仕事を戴いたのだ。内容は映画の劇番（劇中に使われる音楽）の録音で勝新太郎主演の「御用牙」という映画だった。当時の僕は車も持ってなかったのでバイブロソニックというかなり重いギターアンプとギター、そしてちょっとしたエフェクターを電車ではこび「アオイスタジオ」というその当時でもかなりの歴史のあるスタジオに入った。大きなスタジオの出入り口の横にギターのセットをして、ふと横を見るとそこにはなんと勝新太郎本人が立っていたのだ。圧倒的な存在感だった。自分がエラくなったような気さえした。</p>
<p>当時は同録（すべての楽器類を同時に録音すること）だったので何十人ものミュージシャンがスタジオにいた。指揮者が所定の場所に立ちスクリーンに映し出される映像に合わせて録音する、しかもその日一日で映画に使用されるすべての曲を録り終えるのだ。譜面台に積まれたたくさんの譜面に唖然とするのであった。</p>
<p>そしてついに最初の曲の録音が始まった。譜面の冒頭にGuit. Soloと書かれていたので、夢中にアドリブソロを弾いていた。曲が終わると「OK」と書かれたランプが点灯、僕は不安になりアレンジャーの人に「だいじょうぶですか？」と聞くと「ソロは最初の8小節のつもりだったけどOKが出てるからいいんじゃない」と言われどっきり！僕は曲の最初から最後までソロを弾いてしまった。赤面赤面‥‥‥‥。</p>
<p>その後は解らないことはアレンジャーに尋ねながらなんとか録り終えることが出来たが、かなり遅い時間になっていた。ギターをかたずけて外に出ると一面の銀世界！僕はギターアンプを押しながらトボトボ地下鉄六本木駅に向かい歩き始めた。ようやくアマンドの横の坂道にさしかかったのだが、路面は完全に凍結していてなかなか登れない。体をほとんど寝かすようにアンプを押しながら坂をのぼっていくのだが、五、六歩いくとずるずると滑り落ちる、気を取り直して押し始めてもまた滑り落ちる・・・。たった数十メートルの坂道を1時間以上かけて登りきり、やっとの想いで駅に到着した。が、なんと雪のために電車はストップ。僕の疲労は肉体的にも精神的にもピーク。アパートに着いたのは完璧に明るくなってからだった。こうして長くて忘れられない日は終わった。</p>
<p> </p>
<p> </p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.matsubaramasaki.com/column/?feed=rss2&amp;p=22</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>No.18「 赤トンボ」</title>
		<link>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=21</link>
		<comments>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=21#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 12 Feb 2009 14:22:50 +0000</pubDate>
		<dc:creator>rockingchair</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[ギターとの出会い]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=21</guid>
		<description><![CDATA[キャンプバンドやっていたのだが、収入的にきつくなりハコバンドの仕事をする事になった。場所は蒲田のパブ。18時から45分ステージを4回で休日無し。かなりキツそうだが若いからまったく大丈夫。だが支配人から聞いた話によると前のバンドはリクエストの事で赤いシャツの軍団にボコボコにされたそうで、階段には血の痕が残っていた。ともあれ、リハも済んで1stステージから順調に進み3回目が始まった頃ぞろぞろと赤いシャツの軍団が入ってきた。緊張の一瞬である。まもなくその中の若い衆がやって来て「赤とんぼヤレ！」「えっ？赤とんぼって？」「日本人なら知ってるやろ。夕焼け小焼けの赤とんぼじゃ！」  モチロン次の曲は、赤とんぼを歌ったのだ。するとタイソウ気に入られたらしくステージが終わると僕たちは席に呼ばれ「イイ!!バンドやのー。まー飲め！」とご馳走になったのだった。それから以後赤シャツが現れるたんびに赤とんぼを演る様になり、すっかり軍団と仲良しになったのだ。ahahaha~ そんなかんなで一ヶ月目の前に支配人から夜中のバンドが今月で辞めるので僕たちのバンドにヤらないか?と云う話がきたのだが、丸一ヶ月休み無しでソロソロ体力がキツくなってきているのに一日八回ステージはツライよね?と云いながら、倍の給料に惹かれてやる事になった。しかし八回ステージはさすがにキツく、毎日始発で帰るのもツラかった。そのうちアパートに帰ると、胃痙攣でもがき苦しむこともしょっちゅうになった。二ヶ月目が終わるとキーボードがネヲアゲテ辞めた。三ヶ月目はギタートリオで耐え忍んだが、その月にバンドは解散になった。その日から数ヶ月の間プータロー生活に突入した。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>キャンプバンドやっていたのだが、収入的にきつくなりハコバンドの仕事をする事になった。場所は蒲田のパブ。18時から45分ステージを4回で休日無し。かなりキツそうだが若いからまったく大丈夫。だが支配人から聞いた話によると前のバンドはリクエストの事で赤いシャツの軍団にボコボコにされたそうで、階段には血の痕が残っていた。ともあれ、リハも済んで1stステージから順調に進み3回目が始まった頃ぞろぞろと赤いシャツの軍団が入ってきた。緊張の一瞬である。まもなくその中の若い衆がやって来て「赤とんぼヤレ！」「えっ？赤とんぼって？」「日本人なら知ってるやろ。夕焼け小焼けの赤とんぼじゃ！」  モチロン次の曲は、赤とんぼを歌ったのだ。するとタイソウ気に入られたらしくステージが終わると僕たちは席に呼ばれ「イイ!!バンドやのー。まー飲め！」とご馳走になったのだった。それから以後赤シャツが現れるたんびに赤とんぼを演る様になり、すっかり軍団と仲良しになったのだ。ahahaha~ そんなかんなで一ヶ月目の前に支配人から夜中のバンドが今月で辞めるので僕たちのバンドにヤらないか?と云う話がきたのだが、丸一ヶ月休み無しでソロソロ体力がキツくなってきているのに一日八回ステージはツライよね?と云いながら、倍の給料に惹かれてやる事になった。しかし八回ステージはさすがにキツく、毎日始発で帰るのもツラかった。そのうちアパートに帰ると、胃痙攣でもがき苦しむこともしょっちゅうになった。二ヶ月目が終わるとキーボードがネヲアゲテ辞めた。三ヶ月目はギタートリオで耐え忍んだが、その月にバンドは解散になった。その日から数ヶ月の間プータロー生活に突入した。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.matsubaramasaki.com/column/?feed=rss2&amp;p=21</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>No.17米軍キャンプ  「うれしかなしき極東米軍基地」</title>
		<link>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=20</link>
		<comments>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=20#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 12 Feb 2009 14:20:50 +0000</pubDate>
		<dc:creator>rockingchair</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[ギターとの出会い]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=20</guid>
		<description><![CDATA[年が明けてキャンプバンドの仕事が本格的に始まった。東京近郊の様々なキャンプに行ったのだが、場所によっては曲目も変更しなくてはならず、40〜50曲のレパートリーでは足らず絶えず新曲を増やし続ける必要があった。徴兵で来たばっかりの兵隊さんたちの前では流行りの洋楽だし、将校クラブではスタンダードナンバーだし、時には知らないおばさんカントリー歌手のバックも務めなくてはならない。しかし、僕たちのように洋楽を目ざすバンドにとってお客さんが全てアメリカンというのはとっても刺激的で、年も近いのでイイ反応を貰えた。しかし冨士のキャンプのように明日ベトナムに出兵するかもしれない若い兵隊のいるキャンプは大変だった。白人の兵士はCCRに代表されるカントリーロックをやってくれというし、黒人兵はソウルやR&#38;Bをやってくれといってカマボコ兵舎の中で取っ組み合いのケンカが始まるのだ。でもそう言う時は何故かサンタナをやれば治まったものだった。ラテンロックおそるべし！！時にはNY出身のDJをやっていたという黒人兵がドラムを演りたいというのでステージに上げてみたら、めちゃくちゃリズム音痴だったりする。横田基地に行った時などは、いきなりキングストントリオの前座だったりもした。基地に向かう途中にFEN放送を聞いていると、DJが、どこそこでこんなバンドが出演するという紹介が始まると「コレ俺達じゃねーの」と大騒ぎ。でも演奏が終わってハイエースが到着するのは、真夜中の横浜駅。僕は始発電車を当時150円でオールナイト居座れたピンク映画館で待つのが常だった。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>年が明けてキャンプバンドの仕事が本格的に始まった。東京近郊の様々なキャンプに行ったのだが、場所によっては曲目も変更しなくてはならず、40〜50曲のレパートリーでは足らず絶えず新曲を増やし続ける必要があった。徴兵で来たばっかりの兵隊さんたちの前では流行りの洋楽だし、将校クラブではスタンダードナンバーだし、時には知らないおばさんカントリー歌手のバックも務めなくてはならない。しかし、僕たちのように洋楽を目ざすバンドにとってお客さんが全てアメリカンというのはとっても刺激的で、年も近いのでイイ反応を貰えた。しかし冨士のキャンプのように明日ベトナムに出兵するかもしれない若い兵隊のいるキャンプは大変だった。白人の兵士はCCRに代表されるカントリーロックをやってくれというし、黒人兵はソウルやR&amp;Bをやってくれといってカマボコ兵舎の中で取っ組み合いのケンカが始まるのだ。でもそう言う時は何故かサンタナをやれば治まったものだった。ラテンロックおそるべし！！時にはNY出身のDJをやっていたという黒人兵がドラムを演りたいというのでステージに上げてみたら、めちゃくちゃリズム音痴だったりする。横田基地に行った時などは、いきなりキングストントリオの前座だったりもした。基地に向かう途中にFEN放送を聞いていると、DJが、どこそこでこんなバンドが出演するという紹介が始まると「コレ俺達じゃねーの」と大騒ぎ。でも演奏が終わってハイエースが到着するのは、真夜中の横浜駅。僕は始発電車を当時150円でオールナイト居座れたピンク映画館で待つのが常だった。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.matsubaramasaki.com/column/?feed=rss2&amp;p=20</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>No.16 神に見放された日「地獄と天国」</title>
		<link>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=18</link>
		<comments>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=18#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 24 May 2008 11:11:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[ギターとの出会い]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://matsubaramasaki.com/column/?p=18</guid>
		<description><![CDATA[　米軍キャンプバンド時代で一番の思い出は、三沢のキャンプでのことだ。
１２月３１日の夜から１月１日にかけてのNew Year Party で演奏することになり例によってハイエースにマネージャーを含めた５人と楽器を積み込み青森県に向かった。　最初は快調な旅だったが、北にどんどん進むにつれ日が暮れだし、だんだんに天候も悪くなりついには雪が舞ってきた。　そのうち雪は嵐のごとくなり、ある峠のふもとでついにチェーンなしでは走行不可能になった。　路肩に車を止めてチェーンを装着することになりジャッキで車を持ち上げタイヤをはずしチェーンを装着した、、、、、そこまではよかったのだが、、、、、、、、、ここから悲劇がはじまる。　タイヤを着けようとしたらなんと、タイヤを固定するネジが凍った道路と一体化してまったく取れなくなったのだ。　しょうがないので座り込んでほじくりかえすがなかなか取れない、みんなでドライバーとかボールペンだとか色々でほじくりまわしやっとのおもいで分離することが出来た。　ヤッター、、、、、、、、と、ところが、こんどは座り込んでいた僕のジーパンの膝から下が道路と一体化していたのだ。　立ち上がることも出来ないし冷たさで足の感覚もなくなってきた。　身の危険を感じた僕はエイとばかり立ち上がった。　その瞬間無情な音とともにジーパンの膝から下は道路の一部と化した。　このジーパンは普段着でありながらもちろん大事なステージ衣装、しかも替えのパンツはもっていない。
　がっくりしながらも旅を続け明け方三沢に到着したころには雪も上がっていた。キャンプの前のぼろ旅館で仮眠をとり夕方会場にむかった。　ステージの上に楽器をセッティングしてリハーサルを始めた。　ところがギターアンプからはなんの音も出ない？？？長旅の振動で壊れたらしい。　なんでーなんでなのオレってそんなに神様に憎まれてんのーもー＃％＆＄。　結局ステージの裏に置いてあった古いステレオにギターをつないでやることになった　また高校時代にぎゃくもどりかよー　でもまあ音がでただけでもと思い、いい音はでないけどしょうがないじゃんとばかりにリハを終え本番を迎えた。
　会場は古かったがかなり広く千人近い米軍の家族が集まった。　パーティーが始まるとやはりそこはもうアメリカな感じで、バンド演奏が始まったときにはすっかり楽しくなっていた（ジーパンは破れたままだったが）
　そして宴も佳境にさしかかりカウントダウン。５、４、３、２、１、Happy New Year 最高潮になったとき思わぬことが、、、、、、なんと、、なんと会場にいたすべての女性がステージに上がってきてバンドのメンバーとキスをはじめた！　もうキスの嵐！　何百人の女性と一度にキスするなんてありえないよね。　しかもジンガイだよ！　これを「天国」と呼ぶのに違いないと思ったのであった。　へへへ
これって人生の教訓みたいだね「苦しいことのあとには楽しいことがやってくる」
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　米軍キャンプバンド時代で一番の思い出は、三沢のキャンプでのことだ。<br />
１２月３１日の夜から１月１日にかけてのNew Year Party で演奏することになり例によってハイエースにマネージャーを含めた５人と楽器を積み込み青森県に向かった。　最初は快調な旅だったが、北にどんどん進むにつれ日が暮れだし、だんだんに天候も悪くなりついには雪が舞ってきた。　そのうち雪は嵐のごとくなり、ある峠のふもとでついにチェーンなしでは走行不可能になった。　路肩に車を止めてチェーンを装着することになりジャッキで車を持ち上げタイヤをはずしチェーンを装着した、、、、、そこまではよかったのだが、、、、、、、、、ここから悲劇がはじまる。　タイヤを着けようとしたらなんと、タイヤを固定するネジが凍った道路と一体化してまったく取れなくなったのだ。　しょうがないので座り込んでほじくりかえすがなかなか取れない、みんなでドライバーとかボールペンだとか色々でほじくりまわしやっとのおもいで分離することが出来た。　ヤッター、、、、、、、、と、ところが、こんどは座り込んでいた僕のジーパンの膝から下が道路と一体化していたのだ。　立ち上がることも出来ないし冷たさで足の感覚もなくなってきた。　身の危険を感じた僕はエイとばかり立ち上がった。　その瞬間無情な音とともにジーパンの膝から下は道路の一部と化した。　このジーパンは普段着でありながらもちろん大事なステージ衣装、しかも替えのパンツはもっていない。<br />
　がっくりしながらも旅を続け明け方三沢に到着したころには雪も上がっていた。キャンプの前のぼろ旅館で仮眠をとり夕方会場にむかった。　ステージの上に楽器をセッティングしてリハーサルを始めた。　ところがギターアンプからはなんの音も出ない？？？長旅の振動で壊れたらしい。　なんでーなんでなのオレってそんなに神様に憎まれてんのーもー＃％＆＄。　結局ステージの裏に置いてあった古いステレオにギターをつないでやることになった　また高校時代にぎゃくもどりかよー　でもまあ音がでただけでもと思い、いい音はでないけどしょうがないじゃんとばかりにリハを終え本番を迎えた。<br />
　会場は古かったがかなり広く千人近い米軍の家族が集まった。　パーティーが始まるとやはりそこはもうアメリカな感じで、バンド演奏が始まったときにはすっかり楽しくなっていた（ジーパンは破れたままだったが）<br />
　そして宴も佳境にさしかかりカウントダウン。５、４、３、２、１、Happy New Year 最高潮になったとき思わぬことが、、、、、、なんと、、なんと会場にいたすべての女性がステージに上がってきてバンドのメンバーとキスをはじめた！　もうキスの嵐！　何百人の女性と一度にキスするなんてありえないよね。　しかもジンガイだよ！　これを「天国」と呼ぶのに違いないと思ったのであった。　へへへ<br />
これって人生の教訓みたいだね「苦しいことのあとには楽しいことがやってくる」</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.matsubaramasaki.com/column/?feed=rss2&amp;p=18</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>No.15 「出会い」</title>
		<link>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=17</link>
		<comments>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=17#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 27 Feb 2008 08:53:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[ギターとの出会い]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://prosv6.tok2.com/~rockingchair/column/?p=17</guid>
		<description><![CDATA[　音楽院に閉じ込められて数ヶ月がすぎた頃、合歓の郷の中にあるステップインというライブスペースでプロによる演奏があるとのことでわくわくして聴きに行った。「大村憲司」ひきいる「エントランス」というギタートリオ。そこには村上ポンタもいた。そこで聴いたのは、今までの日本人の演奏では聴いた事のないジャズとロックの融合だった。大きな衝撃！！自分のやりたいことが見えて来たように思ったのだった。
そのあとも色々な刺激的な出会いがあった。合歓のプールサイドで数日間バンド演奏をした「上田正樹とバッドクラブバンド」や同時期に合宿で合歓に来た「ウエストロードブルースバンド」そしてその時に僕たち合歓の生徒と三者で行われたオールナイトブルースセッション。その大きな経験により、もはやここは自分の居るべき場所ではないとさえ思えてくるのだった。セッションの次の日上田正樹さんから新しいバンドへの誘いを受けた。めちゃ嬉しかった！でも大阪にいく気になれなかった。
　僕にとってまず始めに東京にという気持ちがあったのだろう。東京に行けば何かあるはずだと思い焦がれるようになっていたのだ。
合歓音楽院も入学から半年すぎた頃、先に合歓をやめていった仲間からバンドを一緒にやりたいという連絡がきた。内容は東京圏内の米軍キャンプバンドを中心とした活動で事務所もちゃんとあるとのことだった。それで僕は打合せに東京に行く事になった。六本木の喫茶店で待ち合わせをして、誘ってくれたドラマーの彼と会い、次に現れたのはベーシスト。まるで浮浪者のようないでたちにびっくりしたものの、今まで出会ったの事のない魅力を感じた。
次に会ったのはピアニスト。神経質な風貌なのだがしゃべってみるとノーテンキで面白そう。それでいてジャズにもポップにも精通してそうな感じだった。
この時点で僕の心は決まった。というよりなにかしらの魅力があるだけで「東京」に進出したかったんだと思う。僕の心は東京にいた。
さっそく荷物をまとめ東京の縁者に頼りバンド活動を始めたのだが、当時の米軍キャンプの仕事は４５分ステージを４回こなす必要があり少なくとも４、５０曲のレパートリーを持っていなくてはならなかった。当時の洋楽のヒット曲にプラス自分たちのやりたいスティービーやダニーハザウェイなどの曲にスタンダードの曲も増やして、お互いにカセットテープで持ち帰り独自にコピーして数日のリハーサルで６０曲ぐらいの持ち曲にして仕事に挑んだのだった。
そしてキャンプでの演奏活動が始まった。キャンプのゲートではMPの検問を受け出演するクラブに事務所で購入した車（月賦はバンドのギャラから天引きの）ハイエースで向かう。
キャンプ内はおもいきりアメリカだった。お客さんは僕らと同じぐらいの二十歳前後。（当時ベトナム戦争は終わってなかった）黒人と白人が混ざり合っている世界だし、出された食事は見た事もないぐらい大きなハンバーガーだし何よりも客のノリがいい！気に入ってくれるとテーブルに呼んでくれておごってくれたりした。でも時には黒人からはソウルナンバーを演奏しろと言われ白人からはカントリーロックを演奏しろと言われ、あげくのはてには殴り合いのけんかが始まり困った果てにサンタナの曲を演奏してまとまりがついたこともあった。
そしてある別の日の将校クラブでの演奏ではまったく違うジャンルのスタンダードの曲を演奏しなくてはならなかったりもしたが、この時期は今の自分を生成する重要な時期に違いなかったと思えるのだ。この経験がいまでも僕を支えていてくれるのだ！
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　音楽院に閉じ込められて数ヶ月がすぎた頃、合歓の郷の中にあるステップインというライブスペースでプロによる演奏があるとのことでわくわくして聴きに行った。「大村憲司」ひきいる「エントランス」というギタートリオ。そこには村上ポンタもいた。そこで聴いたのは、今までの日本人の演奏では聴いた事のないジャズとロックの融合だった。大きな衝撃！！自分のやりたいことが見えて来たように思ったのだった。<br />
そのあとも色々な刺激的な出会いがあった。合歓のプールサイドで数日間バンド演奏をした「上田正樹とバッドクラブバンド」や同時期に合宿で合歓に来た「ウエストロードブルースバンド」そしてその時に僕たち合歓の生徒と三者で行われたオールナイトブルースセッション。その大きな経験により、もはやここは自分の居るべき場所ではないとさえ思えてくるのだった。セッションの次の日上田正樹さんから新しいバンドへの誘いを受けた。めちゃ嬉しかった！でも大阪にいく気になれなかった。<br />
　僕にとってまず始めに東京にという気持ちがあったのだろう。東京に行けば何かあるはずだと思い焦がれるようになっていたのだ。<br />
合歓音楽院も入学から半年すぎた頃、先に合歓をやめていった仲間からバンドを一緒にやりたいという連絡がきた。内容は東京圏内の米軍キャンプバンドを中心とした活動で事務所もちゃんとあるとのことだった。それで僕は打合せに東京に行く事になった。六本木の喫茶店で待ち合わせをして、誘ってくれたドラマーの彼と会い、次に現れたのはベーシスト。まるで浮浪者のようないでたちにびっくりしたものの、今まで出会ったの事のない魅力を感じた。<br />
次に会ったのはピアニスト。神経質な風貌なのだがしゃべってみるとノーテンキで面白そう。それでいてジャズにもポップにも精通してそうな感じだった。<br />
この時点で僕の心は決まった。というよりなにかしらの魅力があるだけで「東京」に進出したかったんだと思う。僕の心は東京にいた。<br />
さっそく荷物をまとめ東京の縁者に頼りバンド活動を始めたのだが、当時の米軍キャンプの仕事は４５分ステージを４回こなす必要があり少なくとも４、５０曲のレパートリーを持っていなくてはならなかった。当時の洋楽のヒット曲にプラス自分たちのやりたいスティービーやダニーハザウェイなどの曲にスタンダードの曲も増やして、お互いにカセットテープで持ち帰り独自にコピーして数日のリハーサルで６０曲ぐらいの持ち曲にして仕事に挑んだのだった。<br />
そしてキャンプでの演奏活動が始まった。キャンプのゲートではMPの検問を受け出演するクラブに事務所で購入した車（月賦はバンドのギャラから天引きの）ハイエースで向かう。<br />
キャンプ内はおもいきりアメリカだった。お客さんは僕らと同じぐらいの二十歳前後。（当時ベトナム戦争は終わってなかった）黒人と白人が混ざり合っている世界だし、出された食事は見た事もないぐらい大きなハンバーガーだし何よりも客のノリがいい！気に入ってくれるとテーブルに呼んでくれておごってくれたりした。でも時には黒人からはソウルナンバーを演奏しろと言われ白人からはカントリーロックを演奏しろと言われ、あげくのはてには殴り合いのけんかが始まり困った果てにサンタナの曲を演奏してまとまりがついたこともあった。<br />
そしてある別の日の将校クラブでの演奏ではまったく違うジャンルのスタンダードの曲を演奏しなくてはならなかったりもしたが、この時期は今の自分を生成する重要な時期に違いなかったと思えるのだ。この経験がいまでも僕を支えていてくれるのだ！</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.matsubaramasaki.com/column/?feed=rss2&amp;p=17</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>No.14 「合歓音楽学院」</title>
		<link>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=16</link>
		<comments>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=16#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 18 Feb 2008 08:53:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[ギターとの出会い]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://prosv6.tok2.com/~rockingchair/column/?p=16</guid>
		<description><![CDATA[　合歓音楽院に入って最初に安心したことは、二人部屋のパートナーに恵まれたことだった。彼はとっても温厚でやさしいベーシスト。合歓の郷から割と近くの伊勢市の出身で僕より緊張感がなくて、なんだか楽な感じでいてくれた。
まして実家が近いこともあってコレクションのLPレコードをいっぱい持って来ていたのだ。彼のコレクションはソウルミュージックや、ブラックミュージックなどのジャンルで僕が聞いて来たジャズやロックとは似て違うジャンルだった。
彼は毎晩気に入ったレコードを聞かせてくれた。これによって今までワンマンバンドをやっていた僕がリードギターよりもバッキングのギターに興味を持つ事になったのだ。
　当時、生徒達は朝早く押さえれば一戸建ての練習棟をリハーサルの場所として使えたのだが、それ以外の個人の練習場所として気に入った場所があった。それは寮の階段！なぜかというと、リズムギターの練習をするときにちょうどいい加減の残響がかかってとてもいい気持ちになるんだよ！それこそ無我夢中でリズムの練習をしたものだ。
　音楽院の授業は今から考えるととても興味深い内容だった。実践的な音楽の授業の他に英会話などもあったのだが、僕が一番印象的だったのは、ディスクジョッキーとして草分けだったオールナイトニッポンの名司会者の糸井五郎さんの授業だった。彼の秘蔵コレクションの中の色々なアーチストのライブフィルムの「映写会」を数多くやってくれたり、バンド演奏に対するサジェスチョンを与えてくれた。
実践的な音楽の授業もかなり濃い内容で、きれいに譜面を書くところから、コードプログレション、4Voiceのアプローチなど、19歳としてはかなり難しいところまでいく内容だった。しかし僕としては、いくら全国から集められた優秀な音楽家といっても、全校生徒40人ぐらいの中で満足いくサウンドを作ることよりも、未知の世界に憧れる気持ちのほうが日増しに大きくなってくるのだった。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　合歓音楽院に入って最初に安心したことは、二人部屋のパートナーに恵まれたことだった。彼はとっても温厚でやさしいベーシスト。合歓の郷から割と近くの伊勢市の出身で僕より緊張感がなくて、なんだか楽な感じでいてくれた。<br />
まして実家が近いこともあってコレクションのLPレコードをいっぱい持って来ていたのだ。彼のコレクションはソウルミュージックや、ブラックミュージックなどのジャンルで僕が聞いて来たジャズやロックとは似て違うジャンルだった。<br />
彼は毎晩気に入ったレコードを聞かせてくれた。これによって今までワンマンバンドをやっていた僕がリードギターよりもバッキングのギターに興味を持つ事になったのだ。<br />
　当時、生徒達は朝早く押さえれば一戸建ての練習棟をリハーサルの場所として使えたのだが、それ以外の個人の練習場所として気に入った場所があった。それは寮の階段！なぜかというと、リズムギターの練習をするときにちょうどいい加減の残響がかかってとてもいい気持ちになるんだよ！それこそ無我夢中でリズムの練習をしたものだ。<br />
　音楽院の授業は今から考えるととても興味深い内容だった。実践的な音楽の授業の他に英会話などもあったのだが、僕が一番印象的だったのは、ディスクジョッキーとして草分けだったオールナイトニッポンの名司会者の糸井五郎さんの授業だった。彼の秘蔵コレクションの中の色々なアーチストのライブフィルムの「映写会」を数多くやってくれたり、バンド演奏に対するサジェスチョンを与えてくれた。<br />
実践的な音楽の授業もかなり濃い内容で、きれいに譜面を書くところから、コードプログレション、4Voiceのアプローチなど、19歳としてはかなり難しいところまでいく内容だった。しかし僕としては、いくら全国から集められた優秀な音楽家といっても、全校生徒40人ぐらいの中で満足いくサウンドを作ることよりも、未知の世界に憧れる気持ちのほうが日増しに大きくなってくるのだった。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.matsubaramasaki.com/column/?feed=rss2&amp;p=16</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>No.13 「旅立ち」</title>
		<link>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=15</link>
		<comments>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=15#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 07 Sep 2007 08:51:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[ギターとの出会い]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://prosv6.tok2.com/~rockingchair/column/?p=15</guid>
		<description><![CDATA[　高校の卒業も迫ったころ、バンドのメンバー三人も無事に大学に合格した。
バラバラになる前にもう一度最後の演奏会をヤリタイ！ということで、実家のスナック「香り」を貸してもらって一日だけのライブハウスを開くことにした。
音量のこともありライブはお昼にした。お客さんはもちろん顔見知りの友人たちだし、D野の妹がウエイトレスをかってでてくれた。初めて逢ったのだが可愛い！（後に彼女が最初の妻になるのだ）
演奏が始まり友人たちも飛び入りしてくれ盛り上がった。なんかあっという間に終わってしまった。あっという間の三年間、、、。
　みんなで青春ドラマのように河原を散歩した。みんな無言。いつの間にかD野の妹としっかり手をつないでいた。ドキドキ。
　次の日　ぼくは音楽院に入学するために父の運転する車で三重の合歓の里に向かった。
なぜかバンドのメンバーも便乗してついてきたのだった。福井から三重まではかなり遠い。色々な町を通過しながら色々なことを考え、色々なことをしゃべったがまだ着かない。ようやく近づいてきたがそこは山だらけのド田舎！なぜ田舎からド田舎にいかなくちゃいけないの？と思ったら涙が出てきた。
しかし　いざ合歓の里に到着したら、そこはリゾート、広大な遊び場ではないか！
　そして入学式、というよりウエルカムパーティーが始まり在校生のバンド演奏。さすがに巧い。そしたら何人かの名前が呼び上げられ僕の名前も入っていてステージに上げられ演奏。新入生もなかなかのもの、やはり全国から集まってきただけのことはある。
案内された寮は二人部屋の家具つき冷暖房完備の快適な部屋で、同室になったのがベースの永本忠（彼は後にソーバットレビューのメンバー）で背がとても高くとっても優しい人だった。ラッキー！
これからの学園生活にワクワクドキドキの初日が始まった。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　高校の卒業も迫ったころ、バンドのメンバー三人も無事に大学に合格した。<br />
バラバラになる前にもう一度最後の演奏会をヤリタイ！ということで、実家のスナック「香り」を貸してもらって一日だけのライブハウスを開くことにした。<br />
音量のこともありライブはお昼にした。お客さんはもちろん顔見知りの友人たちだし、D野の妹がウエイトレスをかってでてくれた。初めて逢ったのだが可愛い！（後に彼女が最初の妻になるのだ）<br />
演奏が始まり友人たちも飛び入りしてくれ盛り上がった。なんかあっという間に終わってしまった。あっという間の三年間、、、。<br />
　みんなで青春ドラマのように河原を散歩した。みんな無言。いつの間にかD野の妹としっかり手をつないでいた。ドキドキ。</p>
<p>　次の日　ぼくは音楽院に入学するために父の運転する車で三重の合歓の里に向かった。<br />
なぜかバンドのメンバーも便乗してついてきたのだった。福井から三重まではかなり遠い。色々な町を通過しながら色々なことを考え、色々なことをしゃべったがまだ着かない。ようやく近づいてきたがそこは山だらけのド田舎！なぜ田舎からド田舎にいかなくちゃいけないの？と思ったら涙が出てきた。<br />
しかし　いざ合歓の里に到着したら、そこはリゾート、広大な遊び場ではないか！<br />
　そして入学式、というよりウエルカムパーティーが始まり在校生のバンド演奏。さすがに巧い。そしたら何人かの名前が呼び上げられ僕の名前も入っていてステージに上げられ演奏。新入生もなかなかのもの、やはり全国から集まってきただけのことはある。<br />
案内された寮は二人部屋の家具つき冷暖房完備の快適な部屋で、同室になったのがベースの永本忠（彼は後にソーバットレビューのメンバー）で背がとても高くとっても優しい人だった。ラッキー！<br />
これからの学園生活にワクワクドキドキの初日が始まった。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.matsubaramasaki.com/column/?feed=rss2&amp;p=15</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>No.12 「受験？」</title>
		<link>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=14</link>
		<comments>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=14#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 07 Aug 2007 08:51:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[ギターとの出会い]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://prosv6.tok2.com/~rockingchair/column/?p=14</guid>
		<description><![CDATA[　高校の卒業も見えてきたある日僕はバンドのメンバーに「みんなで一緒にプロになろう！」
と持ちかけたが「正樹、お前はプロになれ！俺たちは趣味でやるから」と一同に言われた。
考えてみれば、そりゃそうだ。何も見えない暗闇に飛び込んでいくようなものだよな。
でも僕にはその道しか考えられなかった。しかしどうしたらいいのか判らず、とりあえず本屋に行って楽典の本を買い、にわかに音楽理論を勉強しなくてはと授業の時間も読みふけっていた。
そんな時、自分と同じように楽典を読みあさってる仲間を見つけた。D野だった。彼は表立ってバンドとかやってないが、ギターリストを目指す同士なのだ。彼は東京で働きながら音楽専門学校にかようらしい。しかし僕は何も決められずで、あせっていた。
そのような状態だと女の子と付き合っていることも罪悪のように感じ出し冷たく彼女と別れた。そんなモヤモヤした中で、ある音楽雑誌に１つの広告を見つけた「ポピュラーの音楽学校！プロへの道！ヤマハ合歓音楽院！生徒募集！」こ、こっ、これだ！これだ！
さっそく担任に頼んで入学試験の願書を取り寄せたが、試験が一次二次三次とあり、どれを受けていいのか解らず二次を受けることにした。あとで判ったのだが一次に落ちた人が二次を受けてもよかったのだったが、僕の田舎にはヤマハの支店がなくて、知るすべもなかったのだった。
そんなわけで二次試験を東京の恵比寿に受けに行ったのだが、早々と願書を出してた僕はギター課受験者の中で受験番号は一番だったのだ。だから当然一科目目の自由演奏が始まったとき、真っ先に僕の名前が呼ばれた。
教室に入ると見るからにプロミュージシャンという感じのバンドがいて試験管に「じゃ始めて下さい」といわれた。僕とっては自由演奏のジユウという言葉しか頭に浮かばず「ではヤリマス！Gのブルース、テンポこれくらい」とバンドとともにアドリブソロを弾き始め、盛り上がり、ピアノの人にソロをまわしたりしちゃったりしてると、「はいもう結構です」と止められ「他にできますか？」といわれて、「１６ビートでDドリアン」とかいって前の調子で始めたら、また途中で止められ終わり。楽器をかたずけていると次の受験者が入ってきて、おもむろに各メンバーに譜面を配りだした。えっ！そうなの？そうだったの？こりゃアカン！がっくりきた〜。他の科目もはじめての問題ばかりでまったくだめで肩を落として帰った。
田舎に帰り、どうしたものかな〜などと考えていたある日、なんと！合格通知がとどいた。
あとで判ったのだが、あの自由演奏が最高にうけたらしい。ヤッター
他の同級生達はこらから受験なのに、僕だけ真っ先に進路が決まっちゃったのだった。
それまで松原と付き合うな！と言っていた先生も「彼のようにやりたいことをちゃんと見つけた人が楽になるんだ」などと手のひらを返したように誉められて、なんか複雑な気持ちになりながらもやはり、希望に胸を膨らせていた時間であった。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　高校の卒業も見えてきたある日僕はバンドのメンバーに「みんなで一緒にプロになろう！」<br />
と持ちかけたが「正樹、お前はプロになれ！俺たちは趣味でやるから」と一同に言われた。<br />
考えてみれば、そりゃそうだ。何も見えない暗闇に飛び込んでいくようなものだよな。<br />
でも僕にはその道しか考えられなかった。しかしどうしたらいいのか判らず、とりあえず本屋に行って楽典の本を買い、にわかに音楽理論を勉強しなくてはと授業の時間も読みふけっていた。<br />
そんな時、自分と同じように楽典を読みあさってる仲間を見つけた。D野だった。彼は表立ってバンドとかやってないが、ギターリストを目指す同士なのだ。彼は東京で働きながら音楽専門学校にかようらしい。しかし僕は何も決められずで、あせっていた。<br />
そのような状態だと女の子と付き合っていることも罪悪のように感じ出し冷たく彼女と別れた。そんなモヤモヤした中で、ある音楽雑誌に１つの広告を見つけた「ポピュラーの音楽学校！プロへの道！ヤマハ合歓音楽院！生徒募集！」こ、こっ、これだ！これだ！<br />
さっそく担任に頼んで入学試験の願書を取り寄せたが、試験が一次二次三次とあり、どれを受けていいのか解らず二次を受けることにした。あとで判ったのだが一次に落ちた人が二次を受けてもよかったのだったが、僕の田舎にはヤマハの支店がなくて、知るすべもなかったのだった。<br />
そんなわけで二次試験を東京の恵比寿に受けに行ったのだが、早々と願書を出してた僕はギター課受験者の中で受験番号は一番だったのだ。だから当然一科目目の自由演奏が始まったとき、真っ先に僕の名前が呼ばれた。<br />
教室に入ると見るからにプロミュージシャンという感じのバンドがいて試験管に「じゃ始めて下さい」といわれた。僕とっては自由演奏のジユウという言葉しか頭に浮かばず「ではヤリマス！Gのブルース、テンポこれくらい」とバンドとともにアドリブソロを弾き始め、盛り上がり、ピアノの人にソロをまわしたりしちゃったりしてると、「はいもう結構です」と止められ「他にできますか？」といわれて、「１６ビートでDドリアン」とかいって前の調子で始めたら、また途中で止められ終わり。楽器をかたずけていると次の受験者が入ってきて、おもむろに各メンバーに譜面を配りだした。えっ！そうなの？そうだったの？こりゃアカン！がっくりきた〜。他の科目もはじめての問題ばかりでまったくだめで肩を落として帰った。<br />
田舎に帰り、どうしたものかな〜などと考えていたある日、なんと！合格通知がとどいた。<br />
あとで判ったのだが、あの自由演奏が最高にうけたらしい。ヤッター<br />
他の同級生達はこらから受験なのに、僕だけ真っ先に進路が決まっちゃったのだった。<br />
それまで松原と付き合うな！と言っていた先生も「彼のようにやりたいことをちゃんと見つけた人が楽になるんだ」などと手のひらを返したように誉められて、なんか複雑な気持ちになりながらもやはり、希望に胸を膨らせていた時間であった。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.matsubaramasaki.com/column/?feed=rss2&amp;p=14</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>No.11 「友人達」</title>
		<link>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=13</link>
		<comments>http://www.matsubaramasaki.com/column/?p=13#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 04 Jun 2007 08:50:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[ギターとの出会い]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://prosv6.tok2.com/~rockingchair/column/?p=13</guid>
		<description><![CDATA[　僕の部屋にはバンドのメンバー以外にも毎日集まってくる人間が増えていた。
小学校の頃は成績優秀だったが高校になると人生や正義や政治や女性なんかで悩んでるうちに何で悩んでるのか解らなくなって悩んでいるK本。
家が養豚場をやっているので朝の暗いうちから手伝っていて夜の９時にはこっくりこっくり始めるS馬。
髪型は花形ミツルでジーパンの柄も花柄、しかも当時誰も持てなかったマーティンのギターをそんなに弾けないのにいつも持ってきていた放送部のO村。（現在某スタジオのエンジニア）
ある日、中古のオルガンを担いできて「一緒にやらせて」で仲間になった陸上部のO谷。この時彼は鍵盤のドレミの位置しか知らなかった。
吉田拓郎フリークで自称シンガーソングライターのN勢。（のちに有名シンガーソングライターの舞台監督をやっていた）
などの個性的な連中がほかにも集っていたがこの頃になると僕の部屋というよりみんなの部室のようになっていて、部室見学の女の子が来たり知らない人が来ててもまったく普通だったのだ。こうなってくると全体がバンドっぽくなったというか、コミュニティーのようだった。
秋の文化祭にバンドで出演した。演奏したのはメロがあんまり決まってないオリジナルの曲と
「枯れ葉」ただしサビなし（コードが難しくなるので省略した）だったと思う。この時の演奏を放送部のO村たちが録音してくれてて、福井の放送局に送ってくれたのだ。そして放送してくれることになった。しかも日曜の夕方放送するから生で電話インタビューを受けることになった。日曜になりラジオと電話の前で家族やバンドのメンバーたちと待った。番組が始まりコーナーになりアナウンサーが電話を回すと、家の電話が鳴った。おそるおそる受話器を取り松原ですと答えると、いきなりラジオから自分の声が出た。不思議な感覚だった。
無事にインタビューを終えて曲がかかったのだが、サビのない枯れ葉だった。ビミョウ、、、僕はまぁ〜構わないけど聞いている人達だいじょうぶだったかなあ〜と、今でも気にしているのです。
この出来事も僕の’プロミュージシャンに成りたい病’にいっそうの拍車をかけるきっかけになったのだ。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　僕の部屋にはバンドのメンバー以外にも毎日集まってくる人間が増えていた。<br />
小学校の頃は成績優秀だったが高校になると人生や正義や政治や女性なんかで悩んでるうちに何で悩んでるのか解らなくなって悩んでいるK本。<br />
家が養豚場をやっているので朝の暗いうちから手伝っていて夜の９時にはこっくりこっくり始めるS馬。<br />
髪型は花形ミツルでジーパンの柄も花柄、しかも当時誰も持てなかったマーティンのギターをそんなに弾けないのにいつも持ってきていた放送部のO村。（現在某スタジオのエンジニア）<br />
ある日、中古のオルガンを担いできて「一緒にやらせて」で仲間になった陸上部のO谷。この時彼は鍵盤のドレミの位置しか知らなかった。<br />
吉田拓郎フリークで自称シンガーソングライターのN勢。（のちに有名シンガーソングライターの舞台監督をやっていた）<br />
などの個性的な連中がほかにも集っていたがこの頃になると僕の部屋というよりみんなの部室のようになっていて、部室見学の女の子が来たり知らない人が来ててもまったく普通だったのだ。こうなってくると全体がバンドっぽくなったというか、コミュニティーのようだった。</p>
<p>秋の文化祭にバンドで出演した。演奏したのはメロがあんまり決まってないオリジナルの曲と<br />
「枯れ葉」ただしサビなし（コードが難しくなるので省略した）だったと思う。この時の演奏を放送部のO村たちが録音してくれてて、福井の放送局に送ってくれたのだ。そして放送してくれることになった。しかも日曜の夕方放送するから生で電話インタビューを受けることになった。日曜になりラジオと電話の前で家族やバンドのメンバーたちと待った。番組が始まりコーナーになりアナウンサーが電話を回すと、家の電話が鳴った。おそるおそる受話器を取り松原ですと答えると、いきなりラジオから自分の声が出た。不思議な感覚だった。<br />
無事にインタビューを終えて曲がかかったのだが、サビのない枯れ葉だった。ビミョウ、、、僕はまぁ〜構わないけど聞いている人達だいじょうぶだったかなあ〜と、今でも気にしているのです。<br />
この出来事も僕の’プロミュージシャンに成りたい病’にいっそうの拍車をかけるきっかけになったのだ。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.matsubaramasaki.com/column/?feed=rss2&amp;p=13</wfw:commentRss>
		</item>
	</channel>
</rss>
